日記と夢日記14

引き続き自宅待機。休日は買い物や食事、あるいは映画館に行ったりレコード屋に行く以外の用であまり家から出たくない。誰とも会わずに1人でのんびり過ごしたい。しかし、こうした状況下で家にいてもあまり楽しくない。

「さ、休日!街へ繰り出して、大好きな人たちと会って、いっぱい笑って、素敵な思い出を作ろう。人生楽しんだ者勝ち!」というような価値観から遠く離れて、一人遊びの享楽に耽りたい。夕方過ぎまで寝てしまったってなんの後悔もない。これが普段の休日の過ごし方だ。

今回の自粛要請にともなう自宅待機により、一人遊びの享楽は、休日の過ごし方を自分で選択したという事実に裏打ちされたものだということがはっきりした。自宅待機を余儀なくされる状況で自宅待機していてもその主体性は奪われているから、ひとつもおもしろくない。一人遊びにはそれなりの自負を持っていたのだが、退屈に過ごしてしまっており、なんとも情けない思いだ。

こうした非常時に堂々と自分の意見を述べて、周囲の人間を勇気付けることができる人はすごい。自分には到底できないと思ってたじろんでしまう。

非常時に求められるのはある種の真っ当さだ。その真っ当さは、言い方は悪いが凡庸、あるいはベタであることが宿命付けられている。多くの人が行動を起こす契機になり得る発言をしているのだから、至極当たり前の話だ。こういうときに、ユニークなことを言って「僕はね、君たちとはひと味違うんだよ」というメッセージを発したところで、それが状況を好転させるとは考えられない。ただ水を差しているに過ぎず、当人の「人とは違いますから」というプライドは守られはするものの、他人からしたら「あ、そう。では用はないので帰ってください」という話にしかならない。

思春期になんとなく周囲との折り合いが悪くなり、同級生たちとつるんではいるものの、馴染んでいるような気がしない。むしろ浮いているような気もする。自意識過剰になって自分の言動が不自然に思えてくる。そんな中、ロックのようなサブカルチャーと出会い、価値観のコペルニクス的転回を経て、浮いた存在からユニークな存在へと自分を変容させようと企てる。あえて人と違ったことを言ってみたり、突飛な格好をしてみたり、体育祭などの行事を冷ややかな目で見たりといった具合。元々人並みに「ワンピース」にわくわくしたり、リリー・フランキーの「東京タワー」に涙したり、「電車男」のログを読み耽ったり、「エンタの神様」で笑うような人間だったが、自分の中のそうした凡庸な面を殺そうとしていた。それは大学で文化系を煮詰めたようなサークルに所属したことでさらに加速した。今にして思えばあまりにも短絡的でそれこそ凡庸に感じられもするが。

ベタな意見表明に対して抱いてしまう複雑な心境は、凡庸の渦に絡め取れないようにする防衛本能のようにも思える。プライドを守ろうとしているのだろうが、そのプライドがいかほどのものかという話だ。

しかし、このしょぼいプライドを捨てて立派な人間になるんだと宣言したところできっとうまくいかないはず。人格の根幹に巣食うこのしょぼいプライドとどうにか折り合いをつけて共存していく方向で考えていかなければいけない気がするのだ。

凡庸なことを恐れずに凡庸な人間たろうとすることは、凡庸さを殺してユニークな存在になろうとする凡庸な振る舞いを形を変えて再び演じているに過ぎないのではなかろうか。「結局凡庸が良いよね、皆で凡庸になろうね」とすることは主体性の放棄であるような気がする。こうした非常時だからこそ主体性の手綱を手放してはいけないのではと思う。愚かさゆえに判断を誤ることはあろうが、それでも自分の見解に基づいて判断したい。

おそらく今、堂々と自分の意見を表明している人は当方が考えているような問題についてとっくの昔に解決させているのだろう。そのうえで、自分が今何を言うべきか考えて発言しているに違いない。筋の悪い自分が情けなくなるし、自分のことしか考える余裕のないこの有様に我ながらうんざりする。

起きた瞬間に夢の内容をスマホにメモした。「マスクしろ」とだけ書かれていた。今日も夢の揮発性の高さを再確認するに留まる。

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