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タクシーからの風景 ~119番と110番

119番

夜になった乗せた客が、走り出そうとしたとたんに「止めてくれ! ドアを開けてくれ!」と言い出す。
振り返ると、すでに吐瀉物が手の間から流れかけている。
慌てて車を止めてドアを開けると、道にゲエゲエと吐く。
こういう時のために通称「ゲロ袋」は積んであるのだが、そんなものを渡す余裕などあったものではない。
こういう客は乗車拒否もできるのだが、幸か不幸かほんの1メーターほどの場所だったので、送ってあげる事にする。

しかし彼はその後、「僕なんて、もうダメだ……生きている価値もない……」などと繰り返し、その1メーターの間に、数度にわたって車を止め、ゲエゲエと吐いた。おかげで、本来1メーターのところが3メーターほどにはなったのだが、ちっとも嬉しくもなかった。

ようやく目的地に到着すると彼は、「ここから好きなだけ取ってください、僕にはもう、お金なんて何の役にも立たないんです……」とサイフを投げてよこし、車外へとよろばい出た。
やむなく釣り銭と彼のサイフを持って車外へ出ると、彼はその場に昏倒していた。呼んでも揺すっても、起きる気配がない。

慌ててその場から、119番通報をする。
たまたま通りかかった警察官立ち会いの元、料金は徴収できたのだが、結局すべてが終了してその場から解放されるまでに、1時間ほど無駄にしたのであった。

不幸中の幸いだったのは、目的地が会社のすぐそばだった事と、シートカバーが少し汚れた程度ですんだので、復旧にさほどの時間は取られなかった事である。

しかし終電直後の比較的楽な1時間を無駄にしてしまったのであった。

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110番

この日は朝からだあれも乗ってくれなかった。いつもの朝7時台なら、出勤だの何だのと誰かしら見つかるのだが、この日は1時間あまりウロウロするも、客はいないし、無線も入らなかった。

ようやく8時を回って、この日最初の客が手を挙げてくれた。
まだ若い、カップルである。
手は挙げたものの、二人は濃厚なキスを続けるばかりで、なかなか乗ってくれない。

ようやく乗ってくれたのは、女性の方のみであった。「このまま真っすぐ行って、○○通りを左へ」と言う。まだかなり酔っているようであった。
この手の指示をする人は、たいてい、その通りを指示通り曲がって間もなく降りる事が多い。

指示通り「○○通り」を左折してしばらく行くと、ほどなく「××通り」と言う、広い通りにぶつかる。先ほどの指示では、その通りよりも手前で降りると思ったので、「もうすぐ××通りですが、このまま越えていいですか」と声をかけたのだが、返事がない。
そこで車を停めて振り返ると、彼女は後部座席で大の字になって熟睡していた。呼べど叫べど、一向に目を覚ます気配がない。

こういうとき僕たちは、客のからだを揺さぶったりと、手を触れる事ができない。派出所等に行き、警察官立ち会いの元でないと、起こす事もできないのである。

やむなく最寄りの交番に行き、警察官に起こしてもらう。10分ほどグデングデンの女性と格闘の末、やっとこ起こして、住所を聞き出す事に成功する。前回の日記の客と同様、このような客は乗車拒否しても差し支えないのだが、ついつい引き続き乗せてしまう。

数分後、目的地へと着く。振り返ると案の定、再び大の字である。しかも大股を開いて、股間をぼりぼりと掻いたりしている。まさに100年の恋も醒める姿である。

またしても、呼べど叫べど、起きない。しかし再度、警察へ行くのも面倒である。
軽く肩を揺さぶると、ようやく目を覚ました。

しかし、それからが大変であった。
彼女は、自分の状況をまったく把握できなかったのである。
料金を請求しても、「はあっ?! なんで私があんたに金を払うワケぇっ?!」などと逆切れする始末である。仕舞いには「あんた、だれ!!」と、勝手にドアを開けて出て行ってしまった。その通りは交通量が多く、僕がなかなか車から降りられぬ間に、彼女の姿は横丁へと消えていった。
結果、乗り逃げである。

すぐにその場から110番する。まさか1ヶ月の間に、119番と110番の両方をかけるハメになるとは、誰が想像できよう。

やがて、数名の警官がやって来た。
住所はわかっていたので、「すぐに見つかるだろう」とタカをくくった僕が甘かった。

朝の通勤時、マンションの出入りは多い。
結局、警官たちと一緒に小1時間も周囲を探しまわったが、管理人も彼女の姿を目撃していなかった上に、監視カメラも設置していないマンションだったので、人物の特定ができなかった。

しかもその状況からは、彼女が意図的に乗り逃げを図ったのではなく、単に泥酔していただけだったのは確かである。これでは、「事件」にはならない。会社の指示に従い、「被害届」のみを提出する事にする。つまり、「これにて操作は打ち切り。偶然、見つかったらラッキーだね」と言う事である。

結局、届け出やらなんやらで、僕の午前中は無駄に終わったのであった。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。