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タクシーからの風景 ~ぜいたく

世の中には、贅沢な人がいる。そもそもタクシーを使うこと自体、贅沢と言えば贅沢なことである。特に都内の場合、ちょっと歩けば、ちょっと待てば、電車でもバスでも、行かれないところはない。
そんな東京での、贅沢な客の話である。

「真っすぐ」

もっとも贅沢なのは、短距離のタクシー利用であろう。
僕の経験した中でもっとも短距離だったのは、六本木ミッドタウンの、六本木側の角の信号から乗った客であった。
一昔前の感じではあるが、ツイードのジャケットを着た、ちょっと上原謙のごとき風貌の、上品な老紳士であった。
乗ると一言、「真っすぐ」と言う。
そして、走ることものの数秒たらず、「次の信号で」と言う。ミッドタウンの、反対側の端っこであった。
直線距離にして、100mそこそこである。
タクシーを何分待っていたのかはしれぬが、老人の足で歩いても、ものの2、3分とかかるまい。しかも彼はヨボヨボなわけでもなく、普通にしっかりと歩いていた。
彼は悠然と、東京の初乗り料金である710円を支払って、降りていった。

「なんとか」

四ッ谷で乗せた、これまた上品な和服姿の、二人組の老婦人。
のっけから、「あら、傘を忘れちゃったわ。運転手さん、悪いけど、ちょいとその角を一周して、待っててもらえるかしら」
おそらく、よくタクシーを利用するのであろう。妙な細道を左へ左へと曲がると、元々乗った地点のちょっと手前に出た。
待つこと10分、いささかあっけにとられたのだが、「忘れた」と言っていた傘は、単なるビニール傘であった。曰く「××さんからお借りした傘なのでねぇ、次にお会いした時にお返ししないと……」
それからようやく、目的地が告げられる。
「新宿通りを新宿方面に走ると、『なんとか』と言うお店がある。その角を左折すると、『若葉』か『青葉』というおいしいタイ焼き屋さんがあるらしいので、そこまで」と言う。念のため、『』内の『なんとか』は、僕が忘れたのでもなんでもなく、本人がそのまま「なんとか」と言ったのである。
またしてもヒントの少ない発注である。さすがに「なんとか」なる店は、見つけようもない。僕に与えられたもう1つののヒントは、「老舗の佃煮屋さん」ということだけであった。
やむなく、「ゆっくり走りますので、そのお店がわかったら教えてください」と、それらしき店を探しながら、ノロノロと新宿通りを走る。ご婦人たちは、「あらあ、見当たらないわねぇ」などと、悠然たるものである。
そうこうするうちに、車は四ッ谷三丁目まで来てしまった。おそらく、行き過ぎである。
「どういたしましょうか?」と、尋ねたところ、「しょうがないわねえ、戻ってもう一度探してみましょう」などと言う。
新宿通りをUターンして、四ッ谷へと戻り、またしても探索開始である。
四ッ谷見附からほんの2、3本目の角に、ようやくその「なんとか」らしき店を見つけた。老舗らしく、目立たぬ店構えであった。しかも、四ッ谷からあまりと言えば近すぎた。最初の探索で見落としたのも、ムリは無い。「まさかこんなに近いとは」という油断で、見落としていたのである。
「そこを曲がってちょうだい」という指示で、とりあえず左折する。
そのまま1、2ブロック進むが、それらしき「タイ焼き屋」は無い。
いささか業を煮やし、車を停め、僕自ら104に電話をして聞いてみる。ところが104のお姉さんも、ヒントが少なすぎたのか、わからずじまいであった。
しかしそこへ、酒屋の配達トラックがやって来た。そのあたりは、昔取った杵柄と言おうか、CMの助監督をしていた僕としては少しく血が騒ぎ、「ちょっと聞いてきます」と、車を降りて、酒屋の兄ちゃんに聞きにいった。
さすがは地元の酒屋さん。ようやくそれらしき店が判明した。実は、「なんとか」なる店の1本先を左折したところだったのである。
それから数分後、目的地に到着し、二人の婦人は嬉々として降りていった。
最初に乗ったところからは、普通だとおそらく1メーター、710円の場所である。
ウロウロしたおかげで、メーターは2000円を超えていた。
しかし二人は何の文句も言うこと無く、「見つかってよかったわねぇ」と笑いながら、料金を支払って降りていった。
どれほど美味いタイ焼きだったのかは、知る由もない。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。