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タクシーからの風景 ~ひと筋の光芒

 その日は朝からどんよりと曇り、風もきつかった。夜からは、雨の降る予報も出ていた。天気の悪い日は比較的客も多いはずなのだが、この日はなぜだか、ほとんど客にありつけなかった。

 まさに、最悪の日であった。
 休憩の際にタバコに火を点けようとしても、強風でなかなか点かない。しかも寒い。震える手でタバコを覆いながらなんとか火を点け、強風を避けながらビルの陰で煙をふかしていると、つくづくと情けなくなる、そんな日であった。

 働く気も失せかけたそんな夕刻、とあるスクランブル交差点で、ひょいと手を挙げた女性がいた。パーティ・ドレスを着た、ちょっと綾瀬はるか似の、かわいらしい女性であった。
 「××の交差点までお願いします」
 その場所は、乗ったところからは、ほんの1メーターの場所であった。「かけずり回って、久しぶりの客が1メーターか……ま、かわいい女性だから、いいか」というのが、すでにやる気も失せているおっさんドライバーの、最初の感想であった。

 しかし走り出すなり、「今日は、風が強いですねえ」と、彼女が話しかけてきた。
 すでに飲んでいる夜の客ならともかく、シラフで話しかけてくる若い女性は、めずらしい。しかも、顔も似ていると思ったら、声も話し方も、綾瀬はるかに似ている。思わずルーム・ミラーで確認したが、さすがに本人ではなかった。
 こちらも「そうですねぇ」などと月並みな相づちを打ったのだが、普段なら、その辺で会話は終わる。しかし彼女は、なんだか楽しげに、話を続けるのであった。

 「朝、田舎から新幹線で来て、こっちで美容院に行って髪をセットして、これから友達の結婚式の二次会に呼ばれてるんですよ」
 よほど楽しみにしていたのだろう。なんだか、とても楽しそうであった。聞いているこちらまで、楽しくなってくる。

 「それなのに、風はきついし、これから雨が降るみたいですねえ」と、ため息をつく。
 聞いているこちらまで一緒にため息をつき、「今夜は、天気予報も外れたらいいですねえ」などと、気の効かぬ相づちを打つ。

 「でも、すっごく久しぶりに会う友達なんですよ」と彼女は、またしてもとても楽しそうである。
 こちらもまた、楽しくなってきて、「それは楽しみですねえ」と、またしても、気の効かぬ相づちを打つ。

 そうこうするうちに、目的地へ到着してしまった。
 料金を支払ったあと彼女は、「ありがとうございました! 行ってきます!」と、さわやかな笑顔を残して去って行った。

 それまで暗雲の立ちこめていた車内に、さあっと光芒が差したかのようであった。
 幸い、車を停めていても差し支えのないところだったので、冴えないおっさんドライバーは、しばしその余韻を噛み締めた後、また、ヨロヨロと走り出したのであった。

 結局この日はほとんど稼げずに終わってしまったのだが、そのほっこりと楽しい気分のまま、一日を終えることが出来た。

 そして無事、天気予報は外れ、その夜、雨が降ることはなかったのであった。

この記事は故人の遺志により、妹が公開したものです。故人ですのでサポートは不要です。ただ、記事からお察しのとおりろくでもないことばかりやらかして借金を遺して逝ってしまったため、もしも万が一、サポートいただけましたら、借金を肩代わりした妹がきっと喜びます。故人もたぶん喜びます。