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変わりゆくものに、思いを馳せながら 【10/3横浜戦○】

なーんか去年のスタメンみたいだねえ。と息子が言う。「下町スワローズ」を思い出しながら、ほんとだねえ、と、私は言う。でもそれは、この切ない秋の日に、未来のヤクルトを見るような、希望のかけらを見るような、そんなスタメンだ。

試合前に流れるファイナルステージのかっちょいい動画を見ながら、ほんとにここまで来たのだなあ、と、しみじみ思う。連敗ばかりしていた4月や5月、こんな風に貯金を持って、CSを決めて、その上で去年のスタメンみたいなメンバーでの試合を見るなんて、思いもしなかった。

ついでに言うと、はらじゅりの試合をこんなに楽しみに見に来るようになるなんて、思いもしなかった。息子もむすめも、「今日はらじゅり!?やったー!!」と言いながら神宮へ向かった。目の前であの完封の試合を見てから、はらじゅりの試合はとにかく「わくわくするもの」になっていた。

野球の1シーズン、たった半年の間に、あらゆるものは変わりゆくのだ。

その短い間に、勝利投手になった選手が、引退を決める。目の前でヒットを打った選手が、戦力外通告を受ける。宮古島で子どもたちが何故か応援歌を熱唱し、友人のカープファンの子どもたちまでも応援歌を覚えた選手(つまり比屋根)が、戦力外通告を受ける。

一方で、まあ若いのだから今年はファームでみっちり鍛えて来年頑張ってくれれば・・など思っていた選手が、宝石のような投球とメンタルを身につけて「再起」する。

私の思考はいつもかなりゆっくりしているので、そのめまぐるしい変化に心がついていかないことがよくある。そもそも毎日のように試合があって、昨日と今日とで結果がさっぱり変わってしまうことにも、なかなかついていけないくらいなのだ。

だけどスピードがあまりに速いだけで、変化そのものはどんな世界にも起こる。若者の成長があり、ベテランの活躍の場は変わり、はらじゅりは進化し、時に変身する。例えばカラシティーに。

これはデジャブか・・?と思うのだけれど、大変楽しみにしていた先発はらじゅりは、いつかのオリックス戦のように、カラシティーに変身した。

この日の試合を見て私は、今年のヤクルトの象徴のようだな、と思った。そう、カラシティーはなんか、今年のヤクルトの象徴のような選手だった。(どうか来年もいてください、と個人的には思う。)

そしてこの日、はらじゅりもがんばれ、と、私は思った。「いろんな絶望や不安がある。周りにも自分にもきっとある。だけどそういうところから這い上がるドラマが、誰かの心を打つ日が来る、こともある。」と。

はらじゅりは本当に、そこから這い上がった。そして、誰かの心を打ち続けた。打球が足に当たり1回で交代した時には、もうあほほどみんなを心配させるほどの選手になった。

そして私は思う。こうして、不安や絶望から這い上がるというのは、決して「現役生活」の中だけで言えることじゃない。プロの選手でいられる時間なんて、長い人生で見れば実はほんの短い間なのだ。人生の多くは、「現役」じゃない時間になる。

その時間を含めて、むしろその時間ほど、プロの厳しさの中に身を置いた人たちが、心穏やかに、豊かに過ごせますように、と思う。

戦力外通告を受ける。そこには絶望がもちろんある。一つの試合を壊してしまう、一つの試合を作れないという絶望とは違う。その痛みとは、全く違う。人生をかけた痛みがある。

だけどもしかしたら、そこから本当の人生は始まるかもしれない。プロであることにこだわりながら、とにかく野球を続けていくこと。潔くそこを去り、新しい人生を歩むこと。あらゆる選択がそこにある。それを選べるのは自分しかいない。私はひたすら、大好きなチームにいた大好きな選手たちが、自ら選んだこの先の道が、素晴らしいものであるように、と、心から願う。

どうしても、どうしてもこの時期はしんみりしてしまうけれど、つい後ろばかりふりかえってしまうけれど、それでも選手たちは前を見据えて、今日も戦っている。久々に聞く荒木の応援歌は、やっぱり素晴らしく心に響く。そして、復帰してすぐにヒットを打つ。後ろに置いてきてしまったものたちに心を痛めながら、まっすぐ前を向くように。

そこにいる人も、いない人も、打てる人も打てない人も、どうか素晴らしい日々を、と思う。そして、残りの試合を見届けてゆく。

まだまだ今年は、夏の名残のように、物語が続くのだから。


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