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おじいちゃんが教えてくれた、愛のこと。


おしゃれで知識がたくさんあっておいしいものが大好きで気遣いが素晴らしくて優しくてモテまくりの大好きなおじいちゃんが、94歳で亡くなった。

おじいちゃんの祭壇には、思いっきり笑顔でピースしている写真がかけられていた。

もう動かないおじいちゃんに会うのがつらくて、とにかく京都へ向かう気が重かった私だったけれど、斎場に着いた瞬間、出迎えられたその写真にめちゃくちゃ笑ってしまった。

久々に会った近所のおばちゃんは、私のキンパツを見て「あんた誰かと思ったわ!スプレーするとかないんかいな!」と笑って言ったので「いやおばちゃんちのユースケは、私のおかんのお葬式の時キンパツで来たがな!」となってめっちゃ笑った。こういう時でも、なつかしい顔に会えるとほっとする。

ここにはおじいちゃんのことが大好きな人が集まってるなと思ったら、なんだかまた泣けた。泣けたけど上を見るとピースしてるおじいちゃんの遺影があって、もはや私は「笑ってはいけない」みたいな状態になってやっぱり笑ってしまった。

私もぜったい遺影はピースすることに決めた。

94歳のおじいちゃんは早くからiPhoneを持ち、LINEでコミュニケーションをとり、子どもたちの写真はGoogleフォトで共有した。写真を送るたび毎回おじいちゃんはコメントをつけてくれた。むすめのダンスの動画には、「さすがむすめちゃん。動きがしなやか。」息子がふざけている写真には、「往年のジーン・ケリーのタップダンスの舞台を思い出しますね」。コメントだっていつもちょっと洒落ていた。

おじいちゃんが一人で東京に遊びにきてくれた時、せっかくなのでとみんなでオークラに泊まった。

おいしいものを食べることが大好きで、京都伊勢丹の食料品売り場のおばちゃんたちと大の仲良しになり、ことあるごとに京都のおいしいものを贈ってくれた。バレンタインにはいつも孫の私たち三姉妹にチョコを贈ってくれた。京都のマリベルや、神戸のモンロワールのチョコは、おじいちゃんにもらって知った。バレンタインだけじゃくて、七夕にはベルアメールの星をイメージしたチョコを送ってくれた。お気に入りのお店を見つけると、スカーフやタオルやヘアオイルなんかも送ってくれた。

子どもたちに会うたび、顔をくしゃくしゃにして、子どもたちのいいところをたくさんたくさんあげてくれた。子どもたちを買い物に連れて行くと、二人はプリティーウーマンかってくらい、両手におもちゃを抱えて帰ってきた。息子がまだ小さいとき、実家にあった古いアンパンマンのおもちゃをうれしそうに指差して「あーぱん!あーぱん!」と言っているのを見たおじいちゃんは、数日後、私の東京の自宅宛にめちゃくちゃでっかい段ボール箱いっぱいに大量のアンパンマンのおもちゃを送ってくれた。

それだけひ孫に宇宙級の愛情を注いでくれるおじいちゃんだけど、最後にはぜったい私に「ようがんばってるなぁ」と言ってくれた。おじいちゃんはひ孫たちをほんとうにあらゆる言葉でほめてくれたけれど、それを必ず孫である私につなげてくれた。

去年は、怪我をして腰の手術を受けた。だけど90歳を過ぎて全身麻酔をして受けた手術を、おじいちゃんは「案外簡単でした」と、言ってのけた。

退院してから食事制限があったおじいちゃんは、自分でカロリーと塩分を計算して、自分のごはんを自分で準備していた。年末帰ったときに子どもたちとおうちへ行くと、ちょうどおじいちゃんは自分で作ったごはんを食べているところで、「カロリー決められてるしこんだけしか食べたらあかんのや。ほんまはもっと食べたいのに。」と笑って言った。

だけどそれは、おじいちゃんの生きる力だ、と私は思った。どんなときも、自分のごはんを、自分の体に合わせて準備して食べること。子どもたちも、その姿をしっかり見た。私はこどもたちに、おっきいじいじが見せてくれたそれが、生きる力だよ、と伝えた。

自分の力で生きるおじいちゃんは、ほんとうにかっこよかった。

おじいちゃんは、私が生まれる前、まだ50歳くらいのときに、息子でである、お母さんのお兄ちゃんを交通事故で亡くした。15年前には、娘であるお母さんをがんで亡くした。おじいちゃんは、二人の子どもを両方とも、先に亡くしている。そして6年前、妻であるおばあちゃんを喪主として見送った。

親になった今、ようやくその辛さが、その痛みが、わかる。「お母さん」を亡くした私たちももちろん悲しかったけれど、「娘」を亡くしたおじいちゃんの辛さは、またもっと違ったものだったはずだ。

だけど、妹が言っていた。

「お母さんが亡くなった時、いろんな人に『お父さんのこと支えてあげてね』と言われて精神的に子どもやった私はモヤモヤしてたけど、おじいちゃんだけは、『お母さんのこと守れんでごめんな。せやけど、お母さんが残してくれたあんたら孫は、わしにとっての宝物や』ってまっすぐ言ってくれて、心が救われた。」と。

そうだった、おじいちゃんの一番すごいところは、そういうところだった。どれだけ自分がつらい立場だったとしても、相手を思いやる強さを持っていた。

そういえば、おじいちゃんは、ほんとうに一度も、たったの一度も、私を否定することを言ったことがなかった。東京へいくときも、結婚するときも、仕事を続けるときも、そして子育てをする中でも。

おじいちゃんは整理整頓が上手で、家の中のどこに何があるかをすべて把握していた。一方、孫の私はさっぱりそれができない。いつも何かをなくして何かを忘れていく。でもおじいちゃんは「なんでそれもできひんのや」みたいなことは私に一切言わない。自分が得意なことを生かして、なくしたものはここにはないからこっちにあるんじゃないか、と言ってくれる。

おじいちゃんの時代に女性が働くなんてことはほとんどなかったはずだけれど、「仕事を持ちながら子育てをする麻衣はほんとうにえらい」といつも言ってくれる。

否定しないどころか、そういえばおじいちゃんは、私を心配しているそぶりすら、見せたことがなかったな、と思う。大好きなお母さんを亡くしたときも、一人で東京で初めての出産を迎えたときも。

お母さんの一回忌の頃、おじいちゃんは私に言った。

「『親はなくとも子は育つ』っていうのはほんまやなあ。あんたら孫3人は、草子(お母さん)がいーひんかっても、ほんまにちゃんと育ってちゃんと生きてくれてるわ」と。

23歳くらいだった私が、その頃そんな立派に生きていたかというとまったくそんなことはなかったと思うのだけれど、おじいちゃんにそう言われると「そうか、私はちゃんとやれているんだな」と、自然に思うことができた。お母さんがいなくても、結構ちゃんとやれているんだな、と。

もしかしたらそりゃ心配してくれていたかもしれないけれど、それ以上に、おじいちゃんから感じていたのは「信頼」だった。私のことを、誰よりも信じてくれていた。今思えば、おじいちゃんがそうしてどんなときだって私のことを否定せず、心配するそぶりを一切見せず、全部認めてくれていたことが、母を亡くしてからの私がなんとかその先の人生を生きていく、勇気になっていたのだと思う。

誰かに信じてもらえること、それは、誰かを強くする。

それはおじいちゃんが私に教えてくれたなにより大切なことかもしれない。

愛することは、信じること。

私は目の前にいる家族を、おじちゃんとつながっている子どもたちを、心から信じて信じて信じ続けて、生きていこうと思う。きっと私にできることは、それだけだから。

告別式の出棺の時、私は挨拶をする喪主のお父さんの隣でおじいちゃんの遺影(ピース)を持って、立っていた。後ろでめっちゃ泣いてる声がして、あぁ親戚のおばちゃんたちが泣いてるんかな、寂しいもんな、と思ってふと後ろを振り向くと、なんと号泣しているのはうちの子たち二人だった。あまりに泣くものだからおじいちゃんの弟や親戚のおばちゃんたちがハンカチ貸してくれたり肩たたいてなぐさめてくれたり抱きしめてくれたりと、プチ騒ぎになっていた。

しかしひ孫にこんなに泣かれるおじいちゃんっていうのもなかなかいないよね、これはもうピースだよおじいちゃん、と、私は思った。

娘である私のお母さんを亡くして15年。過ぎてみれば、おじいちゃんにとってその15年はあっという間だったようにも思う。それは辛くさみしい15年だったかもしれないけれど、でも亡くした人の数よりも生まれた命の数の多い、そんな15年だった。いつだって笑ってくれた、おじいちゃんのことを何回だって思い出す。最後にたくさんのひ孫に囲まれたおじいちゃんの人生は、悪くなかったんじゃないかな、と、今は思う。子どもたち二人に若くして先立たれ、妻を看取り、それでも、好きな陶芸を楽しみ、たくさんの友達とひ孫を愛したおじいちゃん。人生でこれほどにはないという辛いことに直面しながら、それでもしっかり、自分の人生を生きたおじいちゃん。

だから私だって、お母さんがいなくなっても、おばあちゃんがいなくなっても、そしておじいちゃんがいなくなっても、ヤクルトが負けてもエラーしても96敗しても16連敗しても今年もしかしてまた最下位になったとしても、どれだけ悲しくてもそれでも、私の人生をめいっぱい生きていかなきゃいけない。これからまた少しずつ元気になって、そしてまた、たくさんの楽しみを見つけて、しあわせとともに生きていかなきゃいけない。

私はお葬式でたぶん3回、遺影を持った。お母さん、おばあちゃん、今回のおじいちゃん。そしてたぶん今回は初めて、弔問に来てくださった方がみんな、というかその場にいる人がみんな、故人よりも歳下だった。すばらしいことなのだそれは、と、私は改めて思う。

お母さんのとき、火葬場ですれ違う遺影の中で、お母さんは一番若かった。それが辛くて、私はつい、お母さんより若い遺影を探してしまった。でも今回は、そんなことはなかった。しかるべき順番は、きちんとある。それはほんとうは難しいことなのだけれど、あらゆる人を先に看取ったおじいちゃんは寂しかったかもしれないけれど、でもたくさんのひ孫に囲まれて、最後は旅立った。それすらも、きちんとしたおじいちゃんらしい、と、思う。

だけど、どれだけの大往生だって、さみしいものはさみしい。つらいものはつらい。かなしいものはかなしい。

お母さんのときにあれもやりたかったこれもやりたかったと思ったのは当たり前だと思っていたけれど、94歳のおじいちゃんでもやっぱりそう思うのだ。100年生きたって110年生きたって、それは変わらないのだろう。後悔のない人生なんて、終わりがある限り、きっとないのだ。

でも、生きていく限り、そして命に限りがある限り、その思いと付き合い続けるしかない。私がおじいちゃんとやりたかったたくさんのことは、私がまたこの先自分で、やっていくしかない。おじいちゃんがそうして、大切な人を亡くしてもまっすぐに生きたように。

むすめ3歳の七五三のときは、神社の階段をむすめをだっこして降りてくれた。

たった6年前にしっかり立っておばあちゃんの喪主をつとめ、挨拶をしたおじいちゃんを、今度は私たちが送ることになる。人が生まれてからの6年、そして命尽きるまでの最後の6年。私はその月日の重さを少し思う。それは33歳から38歳までの6年とは、たぶん少し違う。

だけど、今生きる私は、その6年が持つ重さに、押しつぶされちゃたぶん、いけないのだ。私はその重さに圧倒されるんじゃなくて、結局のところまた明日からの一日一日を、お得意の15分後の小さな目標を達成しながら、コツコツ積み重ねていくしかない。

もういいんだよと、おじいちゃんは言うだろうか。大丈夫だよと。もう充分、たくさん生きたからと。それとも、いつも意欲的だったおじいちゃんは、これでもまだ、やりたいことがあったと笑うだろうか。どちらもありえる気がする。でもきっと、私たちに、あれをしてほしかった、これをしてほしかったということは、やっぱり絶対に言わないだろうと思う。それがおじいちゃんの、かっこいいところだ。私はただただおじいちゃんのその背中を忘れずに、おじいちゃんみたいにまっすぐ、生きていこうと思う。

火葬場で、おじいちゃんのお骨を拾いながら私は思う。

人の身体というのはあくまでも物体なのだ。それは燃えれば灰になり、骨だけを残してあとはなくなってしまうものだ。そうして物体としての体は土に還っていく。あとには何も残らない。何も、何一つ。

だけど、だからこそ、大切なのは心なのだと、思う。物体がなくなっても残るのは、それは心の中の思い出だ。おじいちゃんが生き、そして子どもたちを愛してくれたその関わりの記憶だ。

それでもその心をあたたかく豊かにするために、私たちは入れ物である体だって、やっぱり大切にしなきゃいけない。最後はそのつとめを終えて、灰になり、土になる、その体を。あたたかな心を、その記憶を、残していくために。

もうおじいちゃんは、いない。その体という物体はもう、どこにもない。でももしかすると体と心の間には魂というものがあって(そんなことを河合隼雄先生が言っていた気がする)それはおじいちゃんとかかわった人の心の中に、また宿っていくのかもしれない。

おじいちゃんの骨は、おどろくほどしっかりしていた。腰骨はしっかり残っていた。最後まで自分の足で歩いていた人の骨だった。それはどれだけ辛くても自分の人生をまっすぐ生きた、健全な心を抱えた人の骨だった。

健全な心、健全な体、健全な魂。私はそれをいちばんの、目標にして生きようと思う。それはおじいちゃんが私に残してくれた、大切な教えだ。

東京に帰ってきた翌日にはまた仕事の撮影があって、大好きないつものメンバーと、私はお腹を抱えて何度も何度も笑った。涙が出るくらい笑った。私がこうして、好きな人たちと好きな仕事をしているのは、おじいちゃんが私をこうして生かしてくれたからだ、と、心から思う。

今日からまた、たくさん笑って私は生きていく。おじいちゃんが教えてくれたことを、その愛を、めいっぱい抱いてそして、私の大切な人たちにそれをまた受け渡していきながら。

おじいちゃんありがとう。大好きだよ。またね。


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