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その痛みが、いつか何かにつながることを今日だって信じて【5/26中日戦⚫️】

「しかしなんでこんなにつらいのかねえ。」銀杏並木を子どもたちと並んで歩く帰り道、私はふと隣の息子に聞く。

「ママが負けたわけじゃないのにね。野球してるのはヤクルトなのに。ママがなんかできるわけじゃないのにね」

自分になにもできないものごとに対して、勝ってうれしくて、負けて悔しい気持ちって、一体なんなんだろう。

重ねているからなのかなぁ、と思う。あの人たちのその姿に、自分の今と、これからを。それとも、やっぱり大好きになってしまったその選手たちとチームが、辛そうなのを見るのがつらいのだろうか。痛みを感じるからなのだろうか。

野手が打てる日に、投手が守りきれない。投手が必死に守る日に、野手が打てない。てっぱちは言う。「びっくりするほど噛み合わない。」本当にその通りだ。私だってびっくりしている。なんだ11連敗って。衝撃だ。

だけど今日は本当に、「噛み合わない」で落とした試合だ。エラーばかりして、取るべき点をさっぱり取らず、負けるべくして負けたわけじゃない。今までだってこんな試合はあったのだ。長い連敗中でなければ、「こういう日もある」と、そう言って静かにビールを飲むような試合だ。でもそれが今回は、この長い連敗に重なってしまった。

「噛み合わない」負けならば、勝てるようになるにはあとは「噛み合う」その日を待つこと、それだけだ。

そして「投打が噛み合わない」の責任が、「投」によってしまった日にはいつも、そこで守りきれなかった人のことを思う。

野手は、例えば1人が打てなくても、残り7人で得点を積み上げていくことができる。でも投手は、その失点の多くを、一人で背負わなきゃいけない。そこでの評価は基本的にいつも、「いくつ失点をしたか」という、マイナスを積み重ねていくものなのだ。

失点を負い投手が立つ、その場所はとても孤独な場所だ。そこに一人立ち、投げ込む一球で、すべてが変わってしまう。そのすべてを背負って、投手はマウンドに立つ。

連敗を止められる日だった。ようやくみんなが打てるようになった日だった。タイムリーが出て、エラーが出なかった日だった。その日、なっしーは9失点をした。それは、絶対に取られちゃいけない点だった。

なっしーはここまで、慣れ親しんだチームを急に離れ、新しい環境で、一人黙々と投げ続け、勝ち星を重ねてきた。負けた日だって、それなりに試合を作ってきてくれた。

それなのに今日、よりによって今日、試合を作ることができなかった。球場中が、深い深いため息で覆われた。私は天を仰いだ。

でも、それでも、なっしーはまた、そこに立たなきゃいけない。またそこでボールを投げなきゃいけない。その孤独な場所に戻っていかなくちゃいけない。それがなっしーの仕事で、それがなっしーにできることだからだ。そこで投げるという「チャンス」がある限り、なっしーはそこで戦い続けなきゃいけない。

そうして、たった一人で試合を作ろうとそこで奮起する人を、それでも生まれた失点を、責任を、一人で背負う人の背中を、責めることはどうしたってできない。どれだけため息をついても、その1敗がどれだけ重たくのしかかっても。そこで一人で立ち続ける誰かに、そっと声援を送ることしかできない。その孤独を背負う人の、その背中に。

私がそこに立ったわけじゃない。私が打てなかったわけじゃない。でも例えばぐっちの凡退は、なぜか心に重くのしかかる。なぜだかよくわからないけれども「ごめんなさい」みたいな気にすらなる。でも、ファンってそういうものなのだ。昨日のなっしーの失点に、いつかの誰かのエラーに、誰かのゲッツーに、心を痛めた誰かが必ずいるのだ。その人は、何も悪くないけれども、なぜか責任を感じちゃったりしているのだ。

でも痛みはきっと、誰かを強くする。チームの痛みが、なっしーの痛みが、そしてそれを見届けて自分の痛みのように感じるファンの痛みが、いつか何かにつながっていくことを、いつだって信じていたい。その負けは、その傷は、終わりを示すものではないのだから。

「良き声」がどうか、痛みを抱えた人に届き、力に変わってゆきますように。


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