0モレスキン2

「分かりやすさ」という価値はない

虫賀です。

例えば10周年だから何かをしようと思うのはごく普通のこと。
ではそれは9周年ではダメなのか、11周年になったら?と問うのはヤボなくらい、10周年でなければこれはやれない、なんてことはない。
気持ちの問題以外に理由があるとは思えないわ。

例①
自分に向けて「○○を100回継続したから、ここで自分にご褒美」とか、しないでしょ。
ご褒美が欲しいと思った時点でやればいいじゃない。
99回でも101回でもなく100回でご褒美を用意する理由って、「分かりやすい」以外に何かあるんだろうか(いや、ない)。

例②
自分自身ではなく人様に向けての場合、分かりやすさが求められる場面は少なからずあります。
それはなぜかというと、物理的あるいは心理的に離れているところへは、分かりやすい方が伝わりやすいから。
私には9周年と10周年の違いはよく分からないし、"1年"と"1年+1日"の違いもよく分からないけれど、一般的には違うものとして扱われているように感じます。
「ちょうど○○だから」が理由として通る世の中だから、両者は違うものです。当然のことです。

で。
「読みにくいチラシは、興味が薄いものでもちゃんと読みますか?」という問いを持ち出します。
コレはなんのことかといいますと、「分かりやすい」ということは、離れている人や関係が薄い人へも伝えやすいということです。
ですが、分かりやすくすると、伝えられる内容は限定的になります。

つまり、「分かりやすい」ことは内容が薄っぺらいことであり、内容が薄いことに価値を見いだすのはなかなか難しいと思います。

a.興味がないから読まない :価値ゼロ
b.分かりやすいから読む:価値ちょっとアリ
c.興味がないけどちゃんと読む:価値タップリ
という3パターンがあるとして、分かりやすさはa.の人をb.にすることができますが、それ以外に使い道はないよね。

だから「分かりやすさには価値がある」という人がどれほどみえるのか想像できないでいますが、私は、だからこそ「分かりやすさに価値はない」と思うのです。

商売の手法のひとつとして、分かりやすさの価値は充分にあります。
意識していない人や何も考えていない人でも興味を持ってもらう手段として、外せない要素です。

でも、自分が人として生きていく上で、分かりやすさって、どれほど価値がありますかね。
分かりやすさって、提供するものではあっても、求めたり自分のために使うものではないと思うのです。

都度、「分かりやすさ」を「薄っぺらさ」に置き換えられる人は問題ないでしょうが、そうでない場合、後々問題になると思います。
というか、今はそういう社会になってるでしょ。
筋肉も脳も、持って生まれたものという前提はあるにせよ、結局は使い方(鍛え方)次第では?



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マネジメントたる者は、
未来において何かを起こす責任を受け入れなければならない。

進んでこの責任を引き受けなければならない。
進んでこの責任を引き受けることが、
単に優れた企業から偉大な企業を区別し、
サラリーマンから事業家を峻別する。
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誰ですか、マネジメントを管理と思っている人は。

@3001

私をサポートするような方はいないと思いますが、もしそのお気持ちがあるなら、私の次に読む投稿に対してお願いします。お気持ちに感謝いたします。