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伊藤若冲について

 私は模写を通して絵画表現を学ぶということを大学院でやってきていたのだが、その中で興味を持ったのは伊藤若冲だ。若冲は江戸期に活躍した画家である。日本絵画の中では有名な方に入ると思う。一度は耳にした人も多いのではないだろうか。

 若冲が注目され始めたのは比較的最近であり(大体1960年代後半から研究が増えている印象)、近年では展覧会が開催されれば客足がすごい。東京都美術館でやった時はすごい行列で、人の列が少しずつ動くのに合わせて作品を見る感じだった。中学や高校の美術の教科書にも最近では若冲の作品が何点も紹介されているらしく(日本美術のほとんどが若冲になってたりもするらしい)、知名度も上がってきている。
 一部では若冲が持ち上げられすぎ、という意見もある。若冲は狩野派に学んだあと、中国絵画(特に宋元〜明代の絵画)を学び、さらに実物を見て描く写生をしたりして、独自の画風を作り上げていった画家なのだが、中国絵画の図様そのまま描いた(模写した)作品は、原本と比較してかなり意匠を加えており、中国の人が見るとびっくりするらしい。なんで若冲は日本で人気があるの?とかも中国出身の留学生からよく聞かれたものである。
 私が若冲を初めて知ったのは高校生の時なのだが、見た時の衝撃はかなりあった。雪なんかはでろでろしてるし、色彩がギラギラしてるし(擬音ばっかりだ…)、何か奇妙で、だけど惹きつけられる何かがあった。当時高校の日本画専攻で江戸時代の日本画家を調べるという授業があったんだけれど、私は俵屋宗達が担当で、けど内心は若冲のことがとても気になっていた。

 それからしばらく若冲からは離れて…(修論の時に青色材料を調べてその時に若冲がプルシアンブルーを使っていた、とか触れたくらいだった)、古典技法を学べる別の大学院に入った時、研究テーマが思いつかなかった私は頭の片隅にいた若冲を選んだ。

 結局その大学院では若冲よりも中国絵画の方を主に学んだんだけれど、描きなれていなかった絹本を体験するときに、若冲の模写をした。絹本というのは絹を基底材とすることで、それが紙だと紙本という。絵画用の絹は蚕の繭糸を合わせた糸を用いて平織した生地のこと。糸自体にも透明感があり、また経糸と緯糸で構成されているから絹目という隙間があり、これによって透ける性質がある。紙との一番の違いはこれで、裏からも彩色できる。裏彩色と言われる技法で、若冲もこれを多用しており、絹の性質理解のためにも若冲の模写は適しているし、何より先生が勧めてくれたので模写することになったのだ。作品は動植綵絵から選んで、部分模写や図を組み合わせたりもした。

 そこですごさを知るというか…、まず、輪郭線がないのだ。大抵の東洋絵画、着色で花鳥図とかであれば淡く細い墨線で輪郭を表し、その中に彩色がなされている(これを鉤勒塡彩という)。これが図録の拡大写真をみても見当たらない。材料分析をまとめた本にも線描はないというようになっていたと記憶している。そして彩色の緻密さ、裏彩色の効果的な表現方法、顔料の厚みで空間をだすなどの工夫、むらのない暈し、…と、とにかくすごい。ミリ単位の部分もあって、どんだけ顔近づけて描いたの?という感じだ。描ける人はぜひ模写してみてほしいし、描けない人は展示されたときや図録を見るときに描く工程を想像していただきたい。模写では、ある程度輪郭を取ったら(原本にはないけど模写の場合薄くでも描かないと訳が分からなくなる)、脇になるべく高画質の見本を準備して、観察し、工程を想像して描くから、展覧会とかで見る時とはまた違う観察眼がいる。実際に同じように描くので筆の動きや置き方を注意深く見る。見れば見るほど、再現すれば再現するほど技術と表現力に圧倒されるのだ。

 それまでは図様にばかり気を取られていたけど、図様は中国絵画の画題を元にしているものが多く、やはり注目すべきは表現の方法なのだと思う。特に絹という素材を理解し、その性質を活かしたところ、さらに若冲の想像力というか、一つの絵画としてまとめる力であったり、そういうところへのリスペクトがある。もう一度言うけれど描いてみてほしい…そしたら分かる。

 何百枚と模写をして、絵画制作の根幹を作り、そこに材料理解や若冲の表現力が合わさって、あの数々の作品は生み出されていたのだ。佐藤康宏氏の論文の中で、若冲の作品は個性的、独創的だといわれるが、何百枚、何千枚と模写を行ったからこそできた表現…、というニュアンスの文章があり(すみませんソースが辿れず…)、それを読んだとき、絵画制作でオリジナリティに追われていた私は胸が熱くなったのを覚えている。今日の絵画、美術領域ではだれが作ったのかわかるような個性が求められる。けど大抵の作品は現代においてのみ構築される、どこかでみた誰かの作品の合わせ技であったり、何かしらのメッセージ性を訴えるものであったりして、永続性がないのだ。
 現代の生きとし生けるものへ向けた作品ももちろんあってもいいが、若冲作品を深く知ると、美術というのは繋がっていくものだということを実感する。それは何もメッセージ性を含まなくとも、これまでの創造物を理解し踏まえることでつながっていくものなのだと思う。

 私は制作ばかりしてきていたけど、最近では別の研究もしていて、研究というのも先行研究があってこそだから、そういうものにも似たものを感じるなあと思っている。何かを成すときにはバトンを受け取る必要があるのだ。

 話がそれてきたけど、最近、若冲は中国では理解されないとか、清代の奇抜な花鳥図の影響が出すぎてるとかいう話(清代より宋〜明じゃないのか?)をされ、モヤモヤしてしまったので書いてしまった。作品や物事を理解するときに必要なのは多角的な視点なのだ。一点だけでは語れない深さがある。

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