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これからの消費のあり方について考える

昨年の今頃、消費についてこんなnoteを書いた。それから私の中で、消費の考え方について改めて考え直すことがあったので、書き留めておこうと思う。

二極化した消費について

先日、ある本が目に留まった。無印良品が出版している『MUJIが生まれる「思考」と「言葉」』。

現在、私たちの生活を取り巻く商品のあり方は二極化しているようです。ひとつは新奇な素材の用法や目をひく造形で独自性を競う商品群。希少性を演出し、ブランドとしての評価を高め、高価格を歓迎するファン層をつくり出していく方向です。もうひとつは極限まで価格を下げていく方向。最も安い素材を使い、生産プロセスをぎりぎりまで簡略化し、労働力の安い国で生産することで生まれる商品群です。

大量生産・大量消費の時代に疲れた私たちは、個性や独自性などに重きを置くようになった。

特に、同調圧力の強い日本においては、やや偏りすぎているのではないかと思うほど、それらが重視されるようになったと思う。

「他人の目を気にしない」

「自分らしく生きる」

「いかに尖るかが大切」

どれも、本当に大切な考え方だ。

でも、あまりにも頻繁にこのような言葉が飛び交い、私的には少し疲れたな…と思う気持ちが、近頃多々あった。

自分らしくって何だろう……?

私は人は変わろうと思えば、どんな瞬間だって、変われると思っている。「自分らしく」という考え方を植え付けることは、自分自身を鎖で繋ぐことと同じじゃないだろうか。

「譲歩」の心を大切にした消費を

先日、前田さんの「メモの魔力」を読んだのだけれど、その中で、"我見"と"離見"という話があった。

"我見"とは、自分自身で自分を見ること。一方で"離見"とは、自分を離れて顧客の立場で自分をみることだ。

本の中では、"我見"を"離見"に一致させることで、客観化を加速できるようになると書かれていた。

それを見たとき、"我見"と"離見"は、何だか個性を重視する現代の考え方と譲歩を大切にする日本的な思考に似ているのかなぁと思った。もちろん細かく見ていけば、違うのかもしれないけれど、直感的にそう感じたのだ。

そして、この"我見"と"離見"の考え方は、今後の消費のあり方についても当てはまるように思う。

というのも、私たちは一人では生きられない。誰しも家族や友達、恋人と共に過ごしていく中で、自分だけに重きを置いていては、他者と共存していくことは難しい。。

そこで、これからの時代に大切になるのが、「譲歩の心」を持つことじゃないかと思う。

それは、相手優先で自分を犠牲にするような消費ではなくて、自分のこだわりを持ちつつも、譲歩の心を大切にする消費だ。

これからの消費のあり方について考えた時に、無印からのこのメッセージはとても響くものがあった。

無印良品が目指しているのは「これがいい」ではなく「これでいい」という理性的な満足感をお客さまに持っていただくこと。つまり「が」ではなく「で」なのです。

 しかしながら「で」にもレベルがあります。無印良品はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることを目指します。「が」には微かなエゴイズムや不協和が含まれますが「で」には抑制や譲歩を含んだ理性が働いています。一方で「で」の中には、あきらめや小さな不満足が含まれるかもしれません。従って「で」のレベルを上げるということは、このあきらめや小さな不満足を払拭していくことなのです。

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よく、日本人は頭が堅いと言われることが多い。けれど、私は日本人こそ柔軟ではないかと思うのだ。

そう感じたのも、日本の「おもてなし力」のレベルの高さからだ。この「おもてなし力」は自己中心的な考えではできない。相手の立場に立って相手が求めているものが分からないと、これほど「良いおもてなし」はできないと思う。

私は日本的な思考にこそ、"離見"の考え方が優れているように思うのだ。

これからの時代の消費のあり方として、「独自性」だけではなく、日本的な「譲歩」の心を持つこと。これがとても大切になるんじゃないかなぁと思うのだ。

#エッセイ #コラム #日記

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