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Vol.98|いまこそ大人になるとき

みなさん、こんにちは!
昨日3月11日の配信、
聴いていただきましたでしょうか。

聴いてくださったかたも
聴いてくださっていないかたにも、
このブログを配信しています。

日々刻々と、
たいへんな勢いで
流れが変わっているのですけれども、
今週、プリミ恥部さんが
9日と10日、
夜19時から生ライブ配信をされました。

プリミ恥部さん 『一瞬を自由自在にすごすこと この生き方の技術が これからの未来では 大事になるのでしょうね』
20'03'09 19:00 
プリミ恥部さん 
20'03'10 19:00 


代官山・晴れたら空に豆まいて、でライブをされて
(いわゆる無観客ライブというものともいえますが)
それが本当に本当にすばらしかったです。

ご覧になっていたかたも
多かったですよね。
わたしも、両日とも生で拝見することができて、
本当に本当に感動して、
なにか、それは、
これまでに体験したことのないたぐいの感動で、
これは、あたらしい時代の愛の体験といってもいい!と
心底ワクワクし、胸いっぱいになっていました。

すごく遠くのかたも
みんなバラバラで見ているだけれど、
でも、一体感があってそれがすごかったです。

Youtubeから配信されたのですけれど、
生ということもあったり、
あと、プリミ恥部さんと、
晴れ豆のみなさまの
なんというか、ただならぬ思いみたいなのもあったりして、
すごい臨場感でしたし、
こういう一体感って、ひょ
っとしたら本来のありかたなのかも
と思ったりしたのでした。

あれ、肉体にこだわりすぎてたのって
幻想だったかな、というような。

いやあ、もちろん生のライブはいいです。
肉体もその場へいって全身で楽しめますものね。
でも、この生動画配信は、なにか、
もっと意識レベルでの
別の喜びとたのしさが
あったんですよね。

自分の居場所で(しかもうちは岐阜の山あいのちいさな町で)
超リラックスしながら、
生でライブを見ることができる贅沢!!
夢のようでした。

東京から岐阜に移住して(というか戻って)
この3月で5年が経ちましたが、
地方都市、特にわたしの住んでいる
美濃という場所は、市としては本来は存続できないくらい
人口も少なくて、
大都市とは比べものにならないくらい、
情報が少ないです。

人が少なければ
情報も少なくて、
何もかもが信じられないくらい、
都市的なものが「ない」です。

一方で、自然とか、高齢者のかたがたとの交流とか
古くからの文化とか風習とかは、ある。

昨日たまたま考えていたんですけれど、
部屋をめっちゃ断捨離したとしますよね。
あれ、何が清々しいかって、
何がどこにあるかが自分の中でわかる、把握できるようになる
ということかなと思うのですが
(スペースクリアリング系、断捨離系、ミニマリストのかたって
ある側面では、この快感を味わっている、
この体験のきよらかさみたいなものをたのしんでいると
わたしは思っているのですが)

人口が少ない町に住む、というのも
似ているな、と。
町内の全員はもちろん知らないけれど、
東京の都心に住んで居る時に比べて、
Aさんは、ここ
Bさんは、あそこ、と
知っている人と住んで居る場所が特定できる。
なんなら、その人たちが、
どうしているかもなんとなくわかっている。
(Aさん家族は今四国旅行へ行ってる、とかですね)

田舎から都会へ積極的に出たかたのなかには
こういう、「狭い世界」が鬱陶しいと
思われていたかたもおおいのかなと思うし、
その気持ちもわたしはすごくわかるんですけれども、
今となっては、
なんか、この、場所のすかすかっとした感じ、
誰がどこに住んで居るか知っている感じ、
知らない人が少ない感じ、
これが、わたしの精神には
楽なのかなと思ったりしています。

断捨離した部屋をすがすがしく感じるのに似て。

で、話が脱線しましたが、
どうしてこの生活を選んだかは、
昨日3月11日、2011年の3月11日に起こった震災が
いちばんのきっかけであり、
ずっとずっともやもやして、
自分のなかに回答がでなかったのが、
中島正さんという方、
そして、正さんのいう「みの虫革命」(万人直耕)の考え方
を知ったことだったのですけれど、
何より、わたし自身、当時、もう、東京の暮らしに
正直飽きていたんだと思います。

編集者と作家の暮らしをしていると
信じられない量のお誘いがあります。

イベント、試写、展示会、展示、ライブ、コンサート、食事会、ミーティング。
誘われたものではなくても、
日常的に、信じられない量のイベントが
毎日行われている。
歩いていける距離(裏原宿が事務所でした)で、
信じられないようなビッグネームのアーティストが
日々行われている。

でも、あるときから、
本の制作の忙しさなどから、
それらの情報がほぼオンタイムでキャッチできなくなり、
ほぼ行けないという状態に陥っていました(しーん)。

たくさんのおしらせのお手紙、ハガキが山積みになって、
「あっ」と思って日づけを見ると、
もう終了していたり……。

なにか、そういう自分、
情報過多な世界にいる自分に
もううんざりしていたんだと思います。
(情報過多な世界でも
十分あれこれ摂取できるかたもいると思いますので、
わたしに対してというのが正確な気がします)

しかも、そういう日常を送っていると
なにかが麻痺する。
わたしは麻痺してた。

なんでもあるのがあたりまえ。
なんでもみられるのがあたりまえ。
なんでも(ある程度)買えるのがあたりまえ。

なんか、でも、
違うなって、思ったんです。

ものすごくお金があったというわけではないし、
たいしてお金をつかった生活をしていたわけでもなかったけれど、
消費する世界に飽きてた。

年間で行くイベントの数だって
(多忙が原因で)そもそも限られている。
情報も追いかけられなくなっている。

ありがたみ、みたいなものも、
感動の沸点が低くなりすぎてて、
なんか薄くなってきてる。
そんな自分に、もう、しみじみ、いやけがさしてたんですね。

だから、
もう、もっているものの荷物をうんと少なくして、
情報もうんと減らして、
なんだろ、
毎日たらふく食べてて、食べものに麻痺した人が自分だとしたら、
空腹状態をちゃんとつくろうと思ったんです。

しっかり空腹状態になって、
そうして、ときどき食べるすばらしいものを、
しっかり味わおう、そのほうが
自分に合ってるな、と。

その感覚と、3月11日東日本大震災と原発事故からの
もやもや、
つまりは、都市生活に対しての違和感とが
ぴったりくっついたというか、
ある種そのふたつの思いがマリアージュして、
わたしを田舎に連れて行ったのだと思います。

つまり、空腹になって、5年。

ライブや、トークショーや、試写や、イベントや、展示なんかの
1回1回がありがたい、という自分に
少しずつなっている今、
ちょっと飢えている今の、
生配信ライブだったわけです(ここにつながります)。

しかも都市的なものを否定してるわけじゃなくて、
すてきな音楽とか、いけてる服とかは
やっぱり、どうして、好きなわけで、
映画館なし、ライブハウスもほぼなし、
本屋さんすらほぼないという美濃にいて、
動画でのライブ配信は本当に
ありがたく、うれしかったんです。
文化的空腹に、貴重な食事だった、といったらいいでしょうか。
海外で聴いておられたかたは
またさらにちがった感慨をおもちだったかもしれないです。

さて。
今日このブログを書いている朝も、
WHOがあらたな見解を発表したりですとか、
あまり日常的でなかったことばが
やたらと飛び交っていたりするのですれども
(パンデミックとか、クラスターとか、
もう少しかわいい名前になったらいいのになと思ったりします。
せめて、こころの中で、「ちゃん」づけで呼んだり
工夫するといいのかも。
ちなみに元号も「ゆるふわ」とかだったらかわいいのにとか
妄想してました……)

繰り返し書かせていただいているように
本当に、あまりにあたりまえになっていった
日々の「ハレ」の世界を、
いったん、お休みして、
そうして、自分がどう生きたいのか、
自分がどう暮らすとしあわせなのかを、
つまりは、
ひとりひとりが内観する
すばらしいチャンスが到来しているのではと思うのです。

たとえばなのですが、

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