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7月14日20時、ウディ・アレン問題について公開ディカッションをします

note初心者でまだわからないことだらけですが、先日書いた記事『ウディ・アレンの新作は葬られるべきか』を驚くほど大勢に読んでいただき、予想を超えた反響もいただきました。そこで文中でも少し触れましたが、ゲストをお招きして、この件について語り合うトークイベントを開催することにしました。

タイトルは「緊急ディスカッション!『ウディ・アレンは社会から抹殺されるべきか?~映画と時代とハラスメントとの付き合い方を考える~』です。

※イベントとチケット販売の詳細はこちら。↓↓↓

登壇ゲストは、『よこがお』の深田晃司監督、LA在住映画ジャーナリストの猿渡由紀さん、朝日新聞記者の伊藤恵里奈さん、2017年に出版されたウディ・アレンのムックの編集を担当されていた編集者・ライターの佐野亨さん、映画ナタリー記者の浅見みなほさん。どの方も、アレンの件のみならず、いま、映画業界が向き合なくてはいけない諸問題に関心のある方であることからお招きしました。

渋谷にあるライブハウス、LOFT9 Shibuyaから無観客でのネット配信7月14日20時からスタートしますが、視聴チケットを買ってくださる方は、イベント終了後も二週間はアーカイブでご覧いただけるとのことです。当然ながら簡単にひとつの答えが見つかったりはしないと思っていますが、見てくださるみなさんも含めて、わからないことをわからないなりに考える機会になればと思っています。

少しだけタイトルの話をさせてください。

「ウディ・アレンは社会から抹殺されるべきか?」という文句は、自分が考えました。早速というか、当然というか、Twitter上でこのタイトルに不快感を示した方がいました。ここでツイートを引用することはしませんが(いま見つからないので削除されたのかも知れません)、確か「抹殺されていい人間なんていません、ちょっとは考えてタイトルをつけてください」といった内容でした。

「抹殺されていい人間なんていない」100%同意します。大上段に「抹殺されるべきか?」と謳っていますが、イベントが始まる前にもう自分の意見を言います。「されるべきではないと思います」。

でも「社会的に抹殺」と「抹殺」は同じではないですね。じゃあアレンのような「罪を犯したと色濃く疑われている人間」は、社会という枠内から排除すべきなのか? いいえ、抹殺も排除もされるべきではない、というのが、少なくとも今の自分の考えです。

じゃあ、なぜそんな言わずもがなのことを、わざわざデカデカと赤字にして書いたのか? 派手な惹句で目を引きたかった? そんな下心が一切よぎらなかったとは言いませんが、一番の理由は、「アレンは(社会的に)抹殺されるべき」という主張が現実に存在し、かなりの割合で既に実現してしまっている現状を、トピックのひとつにしたいと思っているからです。いま目の前にある現実として、少なくともアメリカでは「アレンは社会的に抹殺されかかっている」と言っていいと思います。

これは当日にもお話しますが、その是非はともかく、アレンを社会的に、もしくはアメリカの映画業界から抹殺しようとしているものは何なのか? アレンから性的虐待を受けたと訴えているディラン・ファローは、実際に「アレンに社会から消えて欲しい」という語気で告発をしていますが、被害の当事者としての言葉であることを思うと、決して他人一方的にが間違っているなどと言うことはできない。

でも、ディランや、ディランをサポートしている弟のローナンがアレンの排除を訴えているからといって、彼らが今のアレンの窮状を作った張本人だと名指しするのは躊躇があります。仮に二人が引き金を引いたのだとしても、今アレンに向かっているのは一発や二発の銃弾ではない。じゃあ「アレン排除」の総意はどこから生まれてきたのか? そしてそこに妥当性はないと(もしくは妥当性があると)言い切れるのか? そんな疑問は、トークの中でぜひ議論してみたいところです。

深田監督から伝えられた強い違和感と懸念

一方で、登壇者である深田晃司監督からも、「このタイトルには強い違和感がある」と伝えられました。この件については、イベント当日に深田監督の言葉で話していただきたいと思っていますが、今、乱暴に自分が簡略化して説明すると、恣意的で扇情的すぎる文句であり、性的被害を受けた人たちの告発に対して「加害者を抹殺する行為である」と決めつけていると取られかねない。そんな懸念を、率直に伝えていただきました。

深田監督のご指摘は、もっともだと思います。上に書いたように、強い言葉を敢えて使ったことには自分なりに意図があるわけですが、だからといって、辛い経験をした被害者の人たちの存在をないがしろにしていいわけではない。下腹に鈍器が刺さるような、重い痛みが走る指摘です。

連絡の行き違いもあってイベントのタイトルは既に発表してしまっており、お互いに納得がいく新しいタイトルに差し替える時間はありませんでした。

もう少し準備に時間をかけ、意見交換を密にできていれば、登壇者全員が納得できるもっと練られたタイトルに行き着いていたかも知れません。しかし先程書いたように、自分の中では、強い言葉で訴える意味があると感じて付けたタイトルです。軽率と言われるのも仕方なく、ネーミングの責任は100%自分にあります

ただ、このタイトルに自分なりの問題意識を込めている以上、このタイトル是非も含めて議論の遡上に乗せられればと思っています。また別の登壇者の方からも「ハラスメントは付き合うものではなく向き合うものではないか」といったご意見もいただきました。

自分が抱いた問題意識をきっかけに、ぜひ開催してみたいと思って始めたイベントですが、決して「自分が望む答え」に落とし込むような会にはしないつもりです。6人の登壇者も、お互いをよく知っているわけではなく、それぞれの立場と意見があるでしょうし、全員の同意に着地させる必要もない。おそらく視聴者の方からのお叱りや批判も受けるでしょう。

正直、自分を含めた多くの人が、世の中の流れに付いていこうにも追いつけず、不勉強という焦燥に駆られるか、もしくは途方に暮れて、知らないままで多くのことをやり過ごそうとしていると思います。急速に善悪の基準がアップデートされていく中、間違ったことを言ってしまうのも、知らず知らずに不適切な発言をしてしまうのも怖いです。でも、自分はきっと、いや絶対に、間違った考えや判断をするし、無意識下にあった偏見が露呈することも充分にあり得る。とりあえず、イベント中になにかしらの失言をする覚悟はしておこうと思います(もちろん失言自体やその内容を肯定するつもりではありません)。

なんとか自分なりに道を見つけられた思ったとしても、それが他の人にとって納得がいくとは限らない。誰もが違う意見を持っていいですし、常に正解を出そうとしなくてもいい。ただ、対話することで、お互いに影響や刺激は与えられるはずだと信じています。だからこそ視聴してくださる方にも、一緒に参加して、それぞれに考えてもらえれば、、、というのが、本イベントの主催者として望んでいる方向性であることをお伝えさせてください。

センチな書き方をしますが、自分が大好きなバンドにこんな歌詞があります。

One more chance to get it all wrong もう一度しくじるチャンスを
One more chance to get it all wrong もう一度台無しにするチャンスを
One more night to do it all wrong もう一度やらかす一夜を
One more warning もうひとつの警告を
One more warning sound もうひとつ警告音を鳴らせ

The Replacements「We're Coming Out」  

自分の足りない部分が衆目に晒されると思うと、恐ろしいことを企画してしまったとビビるばかりですが、「自分は間違っていた」とわかることで始まるものもある。そんな会になったらいいなと楽しみにしながら、本番までの短い時間にできる準備を進めていきます。

もしご興味あれば、ぜひこのディスカッションにお付き合いいただけると嬉しいです。

村山章


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