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【今日のnote】ものかきとして生き残るために。ノウハウだけじゃなく、魂の話をしたい。


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、171日目。


 ものかきとして生き残るために、他のライターさんはどんなことを心がけているのだろう。

 意外と、業界では横のつながりが少ないので、こういう話って、真剣にしたことがない。

 今日、そういうことをふと思って、以下のような連続ツイートをした。


 一方で、別に同業種の間では、それほど情報交換って重要ではないのかもと思うこともある。

 ライターの育成という意味では、ノウハウや情報の開示には大いに意味があると思うのだけど(だからこそ、僕は今、オンラインサロンのライター部を統括している)、単に同業種間で情報交換をとしても、「へえ〜」「そうなんですね」的な会話に落ち着いてしまうことがほとんどかもしれない。

 だって、ライターが実際に仕事をするのは、同業種の人間同士ではなく、代理店さんやクライアントさんであり、文章を読むのも、同業種の人間だけではなくて、一般の読者さんが大半なのだから、結局は己でスタイルを作るしかないのである。

 だいたい、キャリアもそれほどたくさん積んでいないライターと名乗る人間が複数人集まって、「あの文章は〜」とか、「これはちょっと〜」とか、「もっとこう〜」とか、文章をこねくり回して、いわゆる定性的な話に終始している光景って、いかにも批評家的というか、文壇じみていて、生産性もないから、僕は好まない。ソムリエか何かのつもりなのか。そんなこと、ソムリエに失礼である。

 ライター業界や編集業界の仕組みなんて、僕は全然知らないし、まったく興味もない。そういうアカデミックな仕組みに興味がなくても、この業界はめちゃくちゃ仕事があるのだ。市場はクライアントと読者がつくっている。

 習うより、やり続けろ、である。

 お利口さんでは、全然だめである。

 野生の本能を研ぎ澄ますべきである。

 そういう同業種の業界の常識みたいなものとか、考え方を、さもそれらしく話されると、僕はもう、ほとんどアレルギーのようになってしまう。たぶん、以前にライター仲間と喧嘩別れのようになってしまったのも、そういう空気感を僕がどことなく感じたからだ。もっといえば、それで孤独を感じ、悲しくなったからだ。あなたは向こう側の人間だとジャッジされたからだ。

 いかにもそれっぽい、業界人的な立ち振る舞いが好きならば、好きにやっていてくれ。俺は全然興味ないから。そんな、反骨心むき出しになってしまう。申し訳ないけれど、仕方がない。腕一本で生き残ってきているからね。


 また、世の中には、「○○万円稼げるライターになるためには」みたいな、いわゆるノウハウ的な情報は山のように出回っている。僕だって、たぶん、自分の現在の収入を開示して、そういう情報商材屋みたいなことをすれば、それなりに学びにきた人を満足させられる自信はある。特に、SEOコンテンツマーケティングの業界であれば、大手企業にも負けないノウハウはあると思っている。実際、コンペでもずっと勝ち続けているから、今がある。

 でもね、だからなんだって話なんですよ。

 以前から何度もこの場所で語ってきているけれど、お金というのはあくまでも、手段であって、目的ではない。○○万円稼げるライターになりたいというのは、あまりにもダサい。書き続けるという圧倒的な意志が最初にあるから、市場価値が後からついてくるのだ。そこを勘違いしてはいけない。

 なぜ書き続けるのか。

 そこに魂はあるのか。

 それが重要である。

 僕が常々、太宰治の「如是我聞(にょぜがもん)」を引用するのは、そういう理由がある。

 あの文章には、こりかたまった業界や文壇人のプライドを愛でる体制に反骨心を持ち、己の魂と意志だけで、きっと読者を幸せにしてみせる、という、心づくしのものかきの想いが、すべてこもっているのである。

「如是我聞」は、太宰治をディスした大老家である志賀直哉へのアンサー文で、ところどころ、とんでもなく尖っているのだけど、アンダーグラウンドなものかきとしての心意気が十分すぎるほどにこもっていて、いつ読んでも胸が熱くなる。

 なんども引用しているけれど、今一度、以下に載せておく。

 他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
 文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
 私たちがいくら声をからして言っても、所謂世の中は、半信半疑のものである。けれども、先輩の、あれは駄目だという一言には、ひと頃の、勅語の如き効果がある。彼らは、実にだらしない生活をしているのだけれども、所謂世の中の信用を得るような暮し方をしている。そうして彼らは、ぬからず、その世の中の信頼を利用している。
 永遠に、私たちは、彼らよりも駄目なのである。私たちの精一ぱいの作品も、彼らの作品にくらべて、読まれたものではないのである。彼らは、その世の中の信頼に便乗し、あれは駄目だと言い、世の中の人たちも、やっぱりそうかと容易に合点し、所謂先輩たちがその気ならば、私たちを気狂い病院にさえ入れることが出来るのである。
 若いものの言い分も聞いてくれ! そうして、考えてくれ! 私が、こんな如是我聞などという拙文をしたためるのは、気が狂っているからでもなく、思いあがっているからでもなく、人におだてられたからでもなく、況や人気とりなどではないのである。本気なのである。昔、誰それも、あんなことをしたね、つまり、あんなものさ、などと軽くかたづけないでくれ。昔あったから、いまもそれと同じような運命をたどるものがあるというような、いい気な独断はよしてくれ。
 いのちがけで事を行うのは罪なりや。そうして、手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。おまえたちは、私たちの苦悩について、少しでも考えてみてくれたことがあるだろうか。
 一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
 私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
 最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。

 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶。
 弱さ。
 聖書。
 生活の恐怖。
 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ。何にも読んでやしないじゃないか。本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲がつねに賑やかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子に乗って来たひとのようにさえ思われる。


 孤独を知り、読書をし、伝統と寄り添いながら書き続けること。

 弱さと苦悩の末に、聖者に近しい使命を全うしようとすること。

 僕は今、コンテンツ業界の最先端であるオンラインサロンや、新しい出資の形であるクラウドファンディング、時代を動かすインフルエンサーたちの作る文脈を目の当たりにし、自らも検索エンジンに最適化された理路整然としたコンテンツを提供することを仕事にしている。デジタルの先っぽでダンスをするような毎日だ。けれど、僕の心の中、あるいは、もっと奥にある魂には、ずっと遠い昔から、僕に生きる気力を与えてくれた歴史上のものかきの先達の礎があると思っている。ノウハウだの、マネタイズだの、ビジネスだの、もちろん大事なのだけど、そればかりを語りたがるうすっぺらい業界の文脈にはもううんざりしているし、文壇めいた業界の話はもっと嫌いだ。

 魂を刻め、書き続けろ。

 狂ったように、それしか方法はないかのように。

 僕の心に棲む何かが吠えている。これからも僕は、デジタルネイチャーな時代の流れの中で、コンテンツの波間を揺蕩う野生動物のように生きていく。しかし、ものごとの本質はいつの時代も変わらない。迎合する者たちがいて、そのマジョリティに飲み込まれず、マイノリティを貫いてきた者たちの文脈が残っていく。僕はそのように生き続けていきたいし、たぶんもう、それ以外の生き方はできないだろう。覚悟は決まっている。戦いは続く。


 今日もこうして、無事に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。