見出し画像

無価値を抱く君へ。

君はきっと比べていて、自分ができないこと、勇気が持てないこと、目の前に並べ立ててこう呟く役者を演じているだろう。「私は無価値だ」。深く、鈍く揺れる幻を眺めているだろう。それは君が作った物語だ。そのドラマは創作だ。まずは気づくことだ。君はいつでも新しく、同じことなど1度となく、繰り返しは思考の中だけで、事実はあまりにもシンプルでやるかやらないかそれだけであること。主軸は自分で、自分が感じることでしか世界を生み出せず、愛と信頼はあふれんばかりに胸を満たし、目の前のステージを雑念消して、人の目など全く意味がなく、君のステップを踏み続けるだけだ。

「メディア、画面の中のもの」に1日触れない生きてみてほしい。君のもとに届くアナログなものだけで世界を作ってみてほしい。PCで言うとメモリを違う部分に割けるようになる。画面を見ていた時間を違うものへ変換できる。そこにあるものも現実だ。そうやって過ごしてもいいんだ。必要なものへエネルギーを使うんだ。「現実とは一人一人が感じていること「のみ」だ」五感を十二分に使ってほしい、目と脳だけではなく、触って匂って、聴いて、動いて。画面を真っ暗にし、君が世界だと思っている方への目を閉じた時に現れる新たな世界を感じてほしい。

無価値感を抱く君へ。できない、だめだと思ったとき君は自分で自分をジャッジしている。しなくていい。ノージャッジだ。できなくていい。むしろできないことの方が喜ばしい。人々は優劣に敏感だ。仕事に評価が付き、評価やスキルが高いほうが高給取りで、人気で、豊かだとされている。僕は全くそう思わない。物乞いには物乞いできると言う豊かさがある。できない人にはできる人にやってもらうという選択肢を持つことができる。人の上に人の下になにもない。ずっとみんな横に並んでいる。君がへりくだり、いかに威厳を保とうとも、皆平面上で行われている。優劣という物語を作って自分を役に当てはめているだけだ。その「できない」はとても豊かなのだ。持っていないという利益だ。例えば先生という仕事は「できる」を生み出しいていく役割がある。「できない」はその人に仕事を与えている。先生の生活の糧だ。何が無価値だ。できる人に「教える」という経験を与えている。とても素晴らしく世界のバランスをとっている。重大に、重要な価値のある君だ。

無価値感を抱く君へ。欠乏の延長線上で行動を起こしていないか。「足りない」から満たされようと動いていないか。そうまたもや逆だ。満ち溢れているものが流れ出す方へ行動するのだ。君の無価値感は欠乏を、欠けている部分にとらわれ過ぎているために発生している。その足りなさが幻想なのだ。きっと誰かが持っているものを見て、自分にはない。だから手に入れる。お金がない、愛が足りない、セックスが足りない、言葉が足りない、食べ物が、生きている心地が足りない。そうやって埋めようと路頭に迷っている。さまよっていると、広告を見つける。安い、みんなが持っている、有名だ、手に入れよう。閉じ切った感覚で、欠乏の路地をさまよう君へ。欲しいものを手に入れろ。値段ではなく、機能性ではなく、その時に必要だからではなく、欲しいもの手に入れろ。深呼吸して、その商品と向き合い見つめ、心に問いかけろ。要るか?回答時間は1秒、それ以降は無効。瞬発力だ。それが直感だ。直感で決めれば後悔はない。後悔は思考で生まれる。それも「あれがこうで、あのときこうしてなかったから今上手くいかない」というストーリーを作ってしまう。またもやメモリを割く必要のない架空映像に時間を奪われしまう。直感だ。「欠けている」は嘘で、君は真球なのだ。完成していて、直感をフルに使うだけだ。人は思考で幸せにはなれなかった。それは歴史が証明している。君が無価値を抱くのは思考に頼っているからだ、直感だ。

生存している時点で、生きていて良いという許しは降りている。
気付けるかどうかだ。手を放せ。使い込んだ物語を捨て去って、君が闊歩せよ。深海、未開、未踏、宇宙、果て。遠く遠くどこまででも無限の魂に従い、有限の肉体で闊歩せよ。君は世界に祝福されている。だから君も君自身を祝福していい。

踊りたいと思ったら踊ることだ。腕の中のものを放り投げて、身体を動かすことだけに集中するんだ。疲れたら休んで、また始めよう。同じことは二度と起こらない。苦しんだ自分はもういない。手を放して、次の感覚に手を伸ばして。君には価値がある。僕が言っても仕方がない。他者が言っても麻酔だ、暗示だ。自分で自分に言うしかない。

私には価値がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?