短編小説「味噌カツ幻想」

東京駅八重洲中央口から地下に降りて其処は文化文明の電燈が燦然とする地下街。
僕は春狂いの陽気に当たって一念発起し、郷里の人々が炉端で縄なう捕縛縄でも売らんかなと、花の都に上京した。東京駅に降りて先ずは昼食でもと徘徊して四半刻、数店の候補を品定めする所存。
サンドイッチとパスタとパンケーキとね、でもやっぱり一番良いのは味噌カツかもね。かりりとしたカツの衣を浸す味噌だれ。味噌だれは名古屋発祥赤味噌の豊穣の旨みに砂糖と味醂を加えて煮詰める。甘さ辛さが調和しているようで「棘」がある。味噌と砂糖が喧嘩をしている。不調和が渾然一体として甘い。辛い。塩い。程よく苦い。酸味があって故に旨い。
肌の合わない新婚夫婦のようだよ。そのよそよそしさが好きなんだな。
刺々しく喉奥に刺さる味噌、味噌、味噌。
ああ堪らない。
もう僕は味噌カツを今すぐ食さねば不可ないぞ。

豚のキャラクターが「美味しいよ」と微笑んでいる。そう、お前は美味である。嗚呼、僕はお前にむしゃぶりつきたい。お前を食べてしまいたい。狼の貪欲を引っ提げて僕はお前に挑みたいのだ。
とにかく今すぐ裸になりたい。

と、僕は地下街を右回りに回って最初の角にあった味噌カツ屋に戻ろうとして、すっかり道に迷って候。見当識、失見当。歩けども歩けども迷宮。己が身を食せ食せと誘う豚は何処に行った。迷宮の豚は。階段を降りて昇って湾曲して、次第に人影は少なくなっていく。どれ程地下に下ったものか。居並ぶ店は次第に変節の店舗が増えていく。どうやら此処は人知の及ばぬ魔境なり。
豚を探す僕はテナントの看板を読みながら歩を進める。

「昆虫拿捕職人の家具の店」
「仮面と呪いの舞踏服専門店」
「下駄占い喫茶」
「猫皮で作るおしゃれ靴」
「生首水槽」
「落ち武者ホスト」
「女子高生の素」
「稀少なペットボトルの蓋店」
「クレヨンで彩色された川原の石ショップ」

蛍光灯が古びて黄色くなっている。通路はすっかり細くなりひび割れている。人とも人外とも言えぬ者がそちこちに蹲る。走光性に狂った蛾が飛んでいる。大きな蛾が天井に壁に訥々音をたてぶつかる。塗粉、塗粉と音がする。そんなのが何匹もいる。塗粉塗粉。一体僕は何処にいるのか。蟻の巣状に入り組んだ八重洲地下街で僕はすっかり迷ってしまったのだ。

「あのすみません」
僕は「猫皮で作るおしゃれ靴店」の店主と思しき御仁に声をかけた。
「味噌カツ屋は何処でしょうか。」
「ああ、ああ」と店主と思しき御仁は言った。
「猫カツね。」
「いや味噌カツ」と僕は言った。
「僕は今すぐ味噌カツを食べたい所存。」
「ああ、ああ」と店主は言って奥に下がった。
「未だか、未だか」と僕は言った。僕をあんまし待たせると裸になってしまうよ。未だか、未だか。僕をあんまし待たせると捕縛縄で括ってしまうよ。未だか、未だか。
半刻して主人が現れて皿にカツが盛られている。
僕は一口食してみたが、肉がもにゅもにゅしているし、大体ソースが味噌じゃない。
「主、これではござらぬよ」と僕が言うと主は「すみませぬゝゝ」とほろほろ泣いた。
(僕は道に迷ってしまったが、店主もまた道に迷っているのかもしれないぞ!)
店主がぴーひょろと笛を吹くと奥から頬かむりした猫たちが現れて盆踊りを踊り始めた。

「味噌カツでござる味噌カツでござる」と僕も踊った。
「ま、ま、一献」と猫たちがかわらけに米酒を注ぐ。
「灘だねえ」
「にゃあお」と僕は愉快に暮らしていると主が耳打ちした。
「お改めでございます。」

黒い影の男が現れたので猫たちは一斉にほうぼうへ散った。宴席の跡が残ってもう誰もいない。
「やいやい」と僕は言った。
「猫たちがいなくなってしまったではないか。」
黒影の男は言った。
「あいかたじけませぬ。ご禁制の品を所望している男がいると聞きましたので。」
「ご禁制とな」
隣の黒影が言った。
「左様でございます。斯く男はご禁制の味噌カツを所望しております。味噌カツは舶来品でございます故、厳しく制限されております。」
「御用御用」と黒影の男達が増えていく。阿礼阿礼増えて、僕と主は忽ち囲まれた。
「なんとな、味噌カツはご禁制とな。」
「左様。ご禁制。」
「貴様、味噌カツも知らずに謀っているのではあるまいな。」
「左様な事はござらぬ。」
「ならば、味噌カツが何たるや論じよ。」
「パイナップルに一刻漬けて柔らかくした豚肉に薄力粉、卵、パンの削り粉の順に衣をつけて、高温の油で短時間に揚げたものが、此れトンカツでござる。」と黒影の説明たるや真に淀みない。
「そのカツに味噌ソースをかけたものが味噌カツにて候。」
「ふむうん、パイナップル。」俺はうなった。「それでは味噌ソースとは何か。」
「味噌ソースとは赤味噌に砂糖とみりんを加えて煮詰めたタレでござる。」
「あいや喝破。」俺は飛び上がった。
「そうとも味噌カツを探す男とはこの俺の事よ」と天井の梁に掴まる。
「神妙にいたせ」黒影の男達は俺に縄を投げたが、俺はどろんと逃げたのだ。

mi
sol
mi
sol
歌が聞こえる。
味噌の歌。
「思い出屋」と看板が提がった店の店頭に父が売られていた。買おうかと尋ねたが首を振って断られた。本当は姉が欲しくて来店したのだが。貧困に妹が泣いていた。「お父ちゃんが恋しい」と妹が泣く。騙されてはいけない、妹よ。如何に店頭に並ぶものが父とて、此処は思い出屋。過ぎ去った追憶は売買するものではない。父は唇を噛み締め震えていた。僕もまた涙を堪えていた。さらば、追憶よ。貧困よ。妹を抱き寄せる。寒風が僕達を冷やさぬよう、僕は妹を抱き寄せる。これ以上失わぬよう、歪に捻くれたお前を僕は緊縛する。
mi
sol
mi
sol
ルールールー


気が付くと俺は噴水にいる。
此処はどこの噴水か。
「此処はどこの噴水か、
とあなたはそう思いましたね。」と声をかける者がある。
「誰か」と俺は誰何した。
「なんの」と男は笑った。
「しがないタロット占い師でござる。」
「なんだ占者であったか、俺は緊縛師でござる。」
「俺は緊縛師でござる、とあなたはそう思いましたね。」
「そうだ、何故分かった。」
「タロット占い師で御座います故」
「ううむ凄い」
「ううむ凄い、とあなたは思いましたね。」
「これは本物だ」俺は仰天した。
「なんの」と男は笑った。
「そうとも俺は貴君に頼みがあるのだ。」と俺は言った。
「なんでございましょう」
「俺は味噌カツ屋を探している。」
「よろしい、ならば占いましょう。」と占者は下駄を投げ候。
「味噌カツ屋はあちらでござる」と占者は下駄が飛んだ方を指さした。
「なんと神妙の技」俺は感心して早速旅に出た。
この旅は長くなるに違いない、と俺は直感した。
そうだ、俺は記念に絵を残そう。
俺は筆を出して壁に豚の絵を描いた。緊縛の豚。
「美味しく食べてね」と台詞を添えた。

我ながら見事。

「これは見事でございますな。」占者が言った。
「うむ」俺は答えた。
人が集まってきた。
見事、見事と皆がくちぐちにほめそやす。
とうとう「絵を売ってくれ」という者が現れた。
だが、俺はもう旅立って仕舞ってもう居ない。
人々はただ絵に見惚れるのみだ。
「嗚呼、味噌カツが食べたい。」後年人は言うだろう。

人は誰でも先人の轍を追いかける子ども。
脂身多くて柔らかでかりりと揚がった衣をまとい、甘辛の赤味噌ダレがかかっている。
豚肉が厚い方が良いという御仁もいるかもしれないが、俺は薄めが好みだね。カツというものは、豚肉はもう飾りであって、主役は衣なんだよ。豚肉が厚くなると衣の味を邪魔するからね。ほら、君。あんこう食いは肉だけは食わぬというじゃないか。あんこうは皮と内蔵を食するのだ。骨は出汁をとるのに用いる。鰭は酒に漬けるものだね。肉は食わぬよ。不味い。
味噌カツもね、大事は衣だよ。赤味噌ソースの浸った衣を白米の上に乗せてね、衣の油と味噌だれが白米に染みた所を食するのだ。衣の内側に豚肉の旨味がつくからね、また其れが風味なのだよ。肉は固いから駄目だね。味気ないしね。ただ肉でも脂身のついた所は良いね。脂身は別格だよ。何にも代えがたい美味だね。箸の先で脂身をつまむと滴る油が味噌だれと混じるだろう。その滴りが白米に落ちた所など、実に風味だ。

東京のポン引きが俺を誘う。
「良い子がいますよ。新人だよ。」
「俺は緊縛師だ」
「頑張り屋さんだよう」
誘われて俺がくぐり抜けたのは改札。
伽藍としたホームに地下鉄がやってくる。

轟。
と風が吹いた。
次いで轟々と長い列車が通り過ぎる。
擬擬、疑義。
鉄輪にブレーキがかかった。
緩慢に停まった電車が一呼吸置いて、ガス圧式ドアーを開ける。

ポン引きが耳許で囁く。
「サ、お乗りなさい」
「この列車は何処に行くの」
「片道で深海。或いは」
「或いは?」
「奈落まで」
「戻ってこれる?」
「だあれも」


人は旅人である。漂泊の。俺もまた先人の旅をなぞらう旅人。
味噌カツ屋を探しながら長らく放浪した俺は、旅の途次で出会った娘に恋をして結婚して男児を設けた。男児は成長して俺の跡を継いだ。俺は隠遁の身となったが、俺の中には未だ情熱の炎が燃えている。人は老いぬ。情熱の炎が消えぬ限り。目をつぶれば眼の裏にはやはり思い浮かぶのだ。八重洲地下街で「美味しく食べてね」と微笑む豚が。嗚呼、食べてやるとも。この情熱の炎でお前をかりりと揚げて。味噌だれをかけて。緊縛して。
俺たちは未だ旅の途次にある。
縛。
縛。
縛。
狼の貪欲さを以て食せ。赤味噌だれと情熱の青い炎。

未だ、八重洲地下の大迷宮にて味噌カツ屋は見つからない。

(短編小説「味噌カツ幻想」村崎懐炉)

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