長編小説「スノウマン ライド・オン ジーザス」

突然自我に目覚めた俺は、俺が一体の雪だるまである事を知った。
早朝、空気は凍えているが本日はどうやら晴天。
視認する限り、この場所は日当たり良好。
どう考えても俺は本日の正午には南中した冬の、暖かな日差しの中に溶けて消える運命だった。

rrrrrrrrrrrrrrrr

一体俺は、何のために生まれてきたのか。
ああ、畜生。
もう何もかもが。

人口密集した都市の、地下の、安いバーには饐えた匂いの男たちが背中を丸めて酒を飲んでいる。彼らは一言も喋らず息を殺して安酒を煽るだけなので、店内は男達の数に関わらず広く見えた。
もし、お前が、初めて店内を訪れたら、暗い店内を眺め見て無人だと思うに違いない。
次に静かに聴こえるピアノの音に気付くだろう。カウンターに古いオーディオスピーカーが置かれていて、ピアノは其処から流れている。
その傍らにバーテンダーが息を潜めて猜疑心に満ちた目でお前の事を窺っている。
その頃にはお前は、少し暗さに目が慣れて、何処に座ろうかと店内を見渡して、初めて無言で酒を飲む男たちの存在に気付くだろう。
彼らは彫像のようであるが、決してギリシア彫刻のような精悍さはない。もっと腑抜けたコンテンポラリーアートに近い。
例えるならマルセル・デュシャンの「泉」。そう云うものに彼らは、俺達は、似ている。俺はバーボンのグラスを空けた。

「もう一杯だ。」
と、俺はバーテンダーに言った。
「飲み過ぎだ、アール」
とバーテンは言った。

俺はバーボンを飲んでいる。飲み続ける。
そしていつものように前後不覚に陥って、何処かで朝を迎える。若しくは、何処かで朝を「迎えない」。きっと俺はいつか夜に置き去りにされて、二度と目覚めない。それは遠い未来かもしれない。近い将来かもしれない。もしかしたら今日かもしれない。

「俺は一体、何のために生まれたんだ。」
毎日の二日酔いの中で良い事など何もない。
人生は汚辱と失敗に満ちている。
俺はバーボンを飲んでいる。
俺は。
俺は。
俺は。

rrrrrrrrrrr

あたしは今日、猫を拾った。
産まれたばかりの子猫は木箱に捨てられて、か細く鳴いていた。
赤い毛糸の手袋から、猫の柔らかさと温かさが伝わった。
きっと猫には、手袋ごしに、あたしの体温が伝わった。
そして、街は夜になった。さっきまで其処は知っている街だったような気がする。
でも今は見知らぬ街に変わった。
街は甲高い、気狂いじみた笑い声や怒鳴り声に満ちていった。
だからあたしはじっと黙った。が、猫は鳴き続ける。
「ミャオ」

あたしには、もう行く場所がない。
同時に名前を失った。
だから、あたしも猫もいまや名前を持たない。
名前のない猫が、見知らぬ街に鳴いていた。

rrrrrrrr

「突然ですが問題です。」
暗がりに点いた小さな火が、紙巻煙草を焦がして、じじと音がした。炎が俯いた男の顔を照らして、消えた。火が消えて暗がりに煙草の火点だけが残った。男が煙草を吸うのに合わせて炎色が強まり、また火点に戻る。

紫煙は、見えない。暗いから。煙草の匂いだけが周囲に漂った。男の吐き出す煙は見えない。
男の顔も見えない。
そして俺には明日が見えない。

「突然ですが、問題です。」
と男は、バクスターは言った。俺は無言だった。
無言の俺の代わりに心臓が、早鐘を打ちやがる。この大都会を揺らすものが、地震なのか、目眩なのか、俺には分からない。

「銃で死ぬ人がいます。」
バクスターは言った。
俺は答えない。
「飛び降りて死ぬ人がいます。」
バクスターは言った。
俺は答えない。

「正解はどちらでしょう。」
軽い金属音が鳴った。
安全装置が外されて、バクスターの影が、俺に、銃口を向けた。
「正解?なんの?」
俺は尋ねた。答えは分かっている。バクスターが煙を吐いた。或いは大きなため息を吐いた。
「もちろん、お前の死に方の話だよ」なんでこんな簡単な事も分からないのか、この間抜け。と吐かれた煙が言っていた。
いや、分かっている。完全に俺は分かっている。
生きるのか、死ぬのか、苦しんで死ぬのか、もっと苦しんで死ぬのか、さて、どちらでしょう?
それが問題です。バクスターが言った。
心臓が早鐘を打ちやがる。

rrrrrrrrrrrrr

俺はチックの奴に銃口を向けた。
死に方くらい選ばせてやろうと思った。チックの死は、俺の死でもある。
俺たちは同じファーザーに拾われた。あいつのが年上だったが、拾われたのは俺の方が早かったから、俺が兄貴であいつが弟だった。チックは良い奴だ。愚鈍でヘタレで間抜けだった。
いついかなる時も、あいつの失敗で、俺までトバッチリを受けてぶん殴られた。だけど勘違いしちゃいけないぜ。
良い奴ってのは俺より仕事が出来ない奴さ。逆に嫌な奴ってのは俺より仕事ができる奴。俺より秀でていて恵まれてる奴。俺を馬鹿にするからな。俺より恵まれてなくて、不幸で、俺が馬鹿に出来るやつは好きさ。
そう云った意味合いからも俺はチックが存分に好きだったし、俺たちは仲良く暮らしていた。毎日ボスにぶん殴られながらも、そこそこ陽気な毎日だった、はずだ。ところが冬が来る日に、チックはファミリーから逃げ出した。逃亡者は処刑されなければならない。
もっと悪い事に、チックは、ファミリーの金を盗み出した。
金を盗んだ逃亡者は考え得る限り凄惨に処刑されなければならない。ファミリーの掟だ。だけど俺はチックが好きなんだ、いまでも。だから、死に方くらいは選ばせてやる。
俺はチックに銃口を向けた。俺たちは同じゴミ溜めで産まれた兄弟だ。ともにこの街の最底辺で暮らしてきた。お前の末路がきっと俺の末路で、俺もいづれお前のように死んでいく。

「チック」
俺は言った。
「逃げちゃ駄目だ。」
もしいま、お前が逃げたら、俺はお前を背中から撃たなくちゃいけない。めくら滅法に撃たなくちゃいけない。訳も分からないまま、気が付けばお前は死骸になっている。お別れの言葉もないまま。臨終の祈りもないまま。そんな死に方じゃ駄目だ。
もっと荘厳に死んでくれ。
威容を以て。どちらかと云えばスマイルで。スタイリッシュで。スリリングに死んでくれ。

「バクスター、お願いだ。見逃してくれ。」と、チックは言った。
 路地裏の暗がりで俺たちは二体の影になっていた。チックの表情は見えない。
だが俺にはお前が今、どんな顔をしているか、手にとるように分かるよ

「実はお前のヘソに発信機が埋め込まれていて、お前の居場所は筒抜けなんだよ。」
と、俺は言った。チックは黙った。
お前がどんな顔をしているか、手にとるように分かる。お前は、間抜けだ。こんな冗談を本気で信じてしまうだろう?

rrrrrrrrrrrr

俺は。
いま幸福の絶頂にいる。
毎日が幸福に包まれている。人生は薔薇色だ。

雑居ビルの空きテナントの鍵が開きっぱなし、である事に気付いたのは先週の事だった。空きテナントであるからして、電気も水道も止められている。が、そんな事は些末であって、忍び込んだ俺の目を奪ったのは窓から見える素晴らしい、芸術的で、崇高な景色だった。

俺はこのフウコウメイビを愉しむために早速ゴミ捨て場から手頃なソファを拾って、この隠れ家に置いた。
人生にはゆとりが必要だ。そしてゆとりに多くの道具は要らない。
俺のゆとりには一つのソファ、そして一つの双眼鏡があれば良い。

双眼鏡の中に花畑が広がっている。
赤、白、黄色、ピンク。
ピンク、ピンク、ピンクのブラジャーお揃いのショーツ。
 ブラ、ブラ、ブラジャー。
ブラ、ブラ、ブラジャー。

100メートル離れたケミカル商品を扱う商社の、(実は其処は俺が勤める職場でもあるのだが、)女子更衣室の全容が、今まさに視神経から脳髄へ伝達される。そしてその図像刺激は俺の極点のヘモグロビンへ。
歓喜に俺の血液は沸騰している。
人生は薔薇色だ。

ブラ、ブラ、ブラジャー。
俺の、ピンクたち。
万歳。素晴らしきかな人生。

rrrrrrrr

俺には二つの季節しかない。
酔っ払って路上で寝ると死ぬ季節と、死なない季節。
冬が始まって、今は路上で寝ると死ぬ季節。もしかしたら、俺は、この季節の到来を待っていたのかもしれない。雪が降っていた。
仰向けに寝転がる俺の、上に。もうあと一刻もこうしていれば、俺は一体の雪だるまになるんだ。

春が来るまで俺は、眠る。俺の血液と凍てついた空気が摩擦して、俺の体が燃えている。めらめらと俺の身体が熱いのだ。ああ、熱い。熱い。
俺は、業火の雪だるまとなるのだ。

俺は最後のバーボンを飲んだ。
喉が、灼ける。胃腑が、灼ける。
皮膚が灼ける。

はりゅ。
はりゅをまちゅんだ。
あたたかな、はりゅを。

路上清掃人が迷惑するだろうか。自分の持ち場に一体の凍死体ができることに。いや、構わないだろう。むしろ、彼らの平凡な人生のちよっとしたアクセントになるに違いない。飛び降りて脳漿撒き散らせるよりは、俺の死に様なんて可愛いものだ。そうだ、俺は雪だるまになるんだ。

「おじさん」
雪だるまである俺に誰かが、声を掛けた。

rrrrrrrrrrrrrrrrrr

名前を無くしたあたしは、名前の無い猫と、街の底辺を歩いていた。
大都会に雪が降っていた。スラムにみるみる雪が積もっていく。
当面の課題は、今晩の寝所だった。
猫を抱いて寝れば、凍死せずに済むだろうか。商業ビルの脇に設置されたドリンクベンダーの裏側なら機械の熱気で少しは暖かいのかもしれない。ああ、お腹が空いた。

どうしたら食べる物が見つかるだろうか。何も食べなければ、この子猫は死ぬのだろうか。(そしてあたしも死ぬのだろうか)

体を売るのか、ゴミを漁るのか。
そんな未来が頭をよぎる。
あたしは、ストリートに並んでいる一軒のブティックに入った。

「いらっしゃい」と声をかけたマダムがあたしを見て顔をしかめた。
「仕事を探してるんだけど」とあたしが言うとマダムは顔をしかめたまま、凄く口汚い言葉で罵った。
だから、あたしも丁寧に、凄く口汚い言葉で返事をしてから店を出た。ストリートにはここから先、十軒ほどの店舗が並ぶ。ブティック、画材屋、カフェ、保険屋。一つずつ、扉を開けてみよう。
あたしは自分の運命を試すのだ。

と、あたしは自分のグッドラックを試してみたが、あたしは少しのグッドラックも持っていなかった。
全ての店であたしは「丁寧に」、凄く口汚い言葉を吐いてドアを閉めた。そうね、世の中はファックよ。あなた方はみんな、アスホールに頭を埋めてビチグソ撒き散らして死ねば良いのよ。
最後の店を出たら、路上に人型の雪溜まりが出来ていた。

末期的なアルコール中毒者が雪に埋もれている。この人も、きっと数十軒のテナントから拒絶されて力尽きたのね。
猫が鳴いていた。
産まれたばかりの無垢な魂で、こいつは死ぬよと鳴いていた。

「おじさん」
あたしはドランカーに声を掛けた。ドランカーは動かない。もう死んでいるのかもしれない。それならば。何か金目のものでも頂けないだろうか。
これがあたしの、僅かばかりの、幸運なのだ、と思った。
神様がきっとあたしに最低限の幸運を恵んでくれたに違いない。

「おじさん」
あたしは再び声を掛けた。
返事はない。オールライト。いいわ、とても。
先ずは仰向けにして、懐を探そう。
そう思ってあたしはドランカーの身体を反転させた。

ドランカーは目を見開いていた。
目だけが生気に満ちていて炯々と輝いている。
硬直したまま、目は夜の空を仰いでいた。
なかなか死にそうにないわ。
あたしは思った。
猫が鳴いた。ドランカーの目が、じろりとあたしを睨んだ。

rrrrrrrrr

俺の眼の前に、少女と猫がいた。
少女なのか、猫なのか、やたらミャオミャオ鳴きやがる。
俺の酩酊に、猫の鳴き声がまとわりつきやがる。

「おじさん」
女の子は言った。
「生きてるの?」
返事をするのが億劫だった。
返事をして欲しければその鳴き声を止めてくれ。
俺の目眩を止めてくれ。

「死ぬの?」
再び女の子は尋ねた。
どっちなんだ、俺は。
生きるのか、死ぬのか。
先程まで酩酊の中で俺は人生に確信を得ていた気がする。
だけれども不躾なガキと猫のお陰で、もう俺には人生が分からない。生きるのか、死ぬのか分からない。

「雪が降っている」俺は言った。そして空を指さした。少女も空を見た。
「だから?」と少女は言った。
だから?なんだろうか。頭が回らない。
「知らない。」
俺は答えた。呂律が回らず、多分変な発音だった。
「お金を頂戴」ガキが言った。

シット、みすぼらしいガキめ。失せやがれ。
「シット、みすぼらしいガキめ。失せやがれ。」
俺は言った。
「その荷物、おじさんの?」とガキが言った。
荷物、なんて俺は持っていただろうか。
俺はしばらく俺の荷物について考えてみた。
俺は荷物なんて持っていただろうか。いや、持っていない。荷物など。
「ねえ、それ。」と少女は指差した。
俺は小脇に黒い鞄を抱えていた。
俺は荷物を持っていた。
「それ頂戴」
とガキが言ったし、猫はミャアと鳴いた。
とにかく少女なのか、猫なのか、やたらミャオミャオ鳴くものだから、俺は思考がまとまらない。

ブールルル!
俺は派手に唇を鳴らした。
黙りやがれ猫め。ガキめ。
「頂戴よ」ガキは言った。

この鞄の中身は何だろう、と俺は考えていた。

rrrrrrrrrr

「待ってくれ」俺はバクスターに声をかけた。
「違うんだ」
彼らは、バクスターは、ファミリーは誤解している。
「チック、面白い死に方をしてくれ」とバクスターは言った。
「せめて俺を満足させてくれ。抱腹絶倒に頼むよ。」
バクスターは銃爪を弾いた。

パシウ。

軽薄な音が銃口から漏れた。
俺の足元で火花が散った。
こいつ、撃ちやがった。
慌てて俺は足を避けた。

パシウ。
パシウ。

俺の足元で火花が散り続ける。
「やめてくれ!バクスター。」
慌てる俺の姿を見て、バクスターはゲラゲラ笑った。

変態野郎め。

rrrrrr

チックはフライパンで炒られる豆のように跳ねた。
必死に命乞いをしている。そうだ、俺はこういうのが見たかったんだ。
盛り上がってきたぞ、チック。お前は最高だ。絶頂しそうだ。

「次はお前が殺されるぞ」とチックは叫んだ。
「殺してみろよ。」俺は負けじと叫んだ。
「ファーザーはお前を許さない。」
チックは叫んだ。
「何でだよ。」
俺は叫んだ。

「お前が金を盗んだからだ。」
「盗んでねえよ。」
「金は此処にはない。お前は金を見つけられない。」
「だから、どうした。」
「俺を殺したお前が金を盗んだと疑われるぞ。お前は弁明できない。お前が金を盗んでいない証明はできない。」
「俺は盗んでねえ」

パシウ
パシウ
跳弾が俺たちの周囲に火花を散らす。火花が、カーニバルのようだった

「お前は潔白を証明できない。ファミリーはお前を許さない。」

カチリ。と乾いた音がした。
弾切れだった。
銃爪を弾いても何も起こらない。
路地裏はすっかり暗闇に落ちていた。

「お前は、証明できない。」
俺の眼の前にチックの影が立っている。
「金は何処だ」
俺は尋ねた。

「知らない」
チックは答えた。
「ふざけんじゃねえぞ、クソチック。」
「本当だ」
「何処に隠した」
「隠してない」
「嘘をつくな」
「盗まれたんだ、鞄ごと」

rrrrrrr

俺は鞄を開けた。
目を疑う。俺は、夢でも見ているのだろうか。アンデルセンのマッチ売りの少女が死ぬ前に見た幻想を、俺も見ているのだろうか。言葉を失った俺の眼の前には、言葉を失った少女がいた。
猫が鳴いていた。
世界の底辺で。世界はすり鉢状に出来ていて、足を踏み外した奴はキャノンボールレースのようにすり鉢の内縁を回転しながら下降していく。
下降しきった最終点が世界の最底辺で、つまりは俺たちのいるところ。
その最底辺で俺たちはどうやら、億万長者になってしまった。

「ジーザス」
少女が言った。
俺だって、信じられない。

「このお金、どうするの?」
「そもそも本物?」
「あなたの物じゃないんでしょ?」
「警察に届けるの?」 と矢継ぎ早に少女が言った。
「分からない」
全く事態が飲み込めない。
「もしかして危ないお金なんじゃ」
それだけは俺も理解した。俺は慌てて鞄を隠した。そして一目散に俺が暮らしているゴミ溜めに逃げ帰った。

rrrrrrrrr

「落ち着きましょう」
とあたしはドランカーに声を掛けた。(アルコール中毒者のおじさんの名前はアールと言った。)
「まず深呼吸よ」
いつもあたしのマザーはそういうの。まずは深呼吸よ、と。お祈りの前も、あたしが周りのビチグソ共と喧嘩した時も、急に震えが止まらなくなって神様を罵り始めた時も。
「まず深呼吸よ」と。

あたしたち、何を考えなくちゃならないのかしら。
鞄の中にお金が入っているわ。多分、本物よ。アールの持ってる(シワクチャの)本物の紙幣と比べてみたもの。
見たこともない金額よ。札束が数えきれないくらい入ってるわ。
何度も札束を数えようとしたけれど、手が震えて、とても数えられない。
深呼吸をしなくっちゃ。

rrrrrrrrr

「ライオネル」
俺は名前を呼ばれた。だが、それが俺の名前なのか分からない。
ライオネル?それが俺の名前だったっけ?
そうそう、それが、俺の、名前だった。今日の俺は、ライオネルなんだ。
「出番だ」
俺に声を掛けるマネージャーの名前はモックとスモッグ。
「今日も凄いファイトを見せてくれよ」
肩を叩かれた。
ファイトか。任せておけ、全て、俺に。俺が、凄いファイトを見せてやる。俺の名前はライオネル。

 rrrrrrrrr

ライオネル、すべてお前に任せた。俺の運命を。
あいつは無敗だ。あいつに叶う人間なんていやしない。
女達のショウタイムが終わって、店内は一瞬暗転した。
スピーカーからビッグバンドジャズが盛大に流れて、花道に挑戦者が現れた。巨躯だ。
ライオネルよりも大きいかもしれない。
筋肉もある。
着ているシャツがはちきれそうだ。ロープをくぐってリングに立った。
そして、後からライオネルが現れた。燕尾服を着ている。客たちが歓声を上げた。ライオネルが上着を脱ぎながら客たちに答えた。ライオネルのシャツも筋肉ではちきれそうだった。ロープをくぐってリングに立つ。今晩のファイター達が対峙した。
ライオネルは英雄なんだ。俺の。俺達の。

試合はライオネルの圧勝だった。殴って殴って、フラフラしているデカブツを背後から抱えてパワーボムが炸裂した。
挑戦者はもう動かない。
ライオネルが勝った。

ライオネル、歌え!
客たちが叫んだ。
ライオネルは乱れた衣服を整えてステージに上がった。

カルメン、闘牛士のうた。
猛々しくライオネルは歌う。シンギング・ライオネル。彼の重低音の声が、俺を震わせる。
一礼をしたライオネルに客たちの拍手が鳴り止まなかった。
ライオネルは英雄なんだ。

rrrrrrrrrrrrr

ライオネルとしての「仕事」を終えて、俺は双子たちからファイトマネーを受け取った。
それを懐に入れて、俺は、街を歩く。なるべく人気が少なくて暗い道を選ぶ。人間を殴った夜は一人になりたいんだ。
地下へ続く階段を降りて粗末なドアを開けた。みすぼらしくて気が利かない場末のバーだ。客たちは石のように動かない。
バーテンも一言も口をきかない。
俺はバーボンを注文した。無言のまま、酒が作られて目の前に置かれる。それを俺も無言で受け取る。
店内はピアノが流れている。だんだん暗闇に目が慣れてきたので、俺は他の客たちを見回した。
どいつもこいつもしょぼくれてやがる。皆、此処に来る客は誰からも見られたくないんだ。
消えてしまいたい、そんな思いで酒を飲んでいる。おや、と俺は思った。一際小さな影があった。もっとよく目を凝らすと女の子だ。
それがしょぼくれたおっさんと一緒にテーブルにいる。
父親だろうか。
小声で喋っているようだ。
何を話しているのか気になったが、ピアノの音に消されて聞こえない。父親もバーボンを飲んでいた。
彼の顔は蒼褪めていたが、目だけは爛々と輝いていた。殺気立っている、ともいえる。何を恐れているのか誰にでも噛みつきそうだ。
父親が席を立ったので、俺は女の子に声をかけた。

「ダディと一緒に来たのかい?」
「いいえ。」女の子は答えた。
「恋人よ。」
妙な冗談を飛ばす娘だ。
「あなたは一人?」
「そう、一人。」
「寂しい人なのね。」
「そうかな、生きていればみんな一人だよ。」
誰かと一緒にいる、と思うのはファンタジイ。
「そうかしら。」
「君のダディもいつかは死んで、他の近親者も死んで、そうすれば君にも分かるよ。」
「本当に彼はダディではないのよ。」
「そうかね、まあ良いよ。」
「あなたは誰?」
「僕?」
「そう、あなた。身体がとても大きいのね。」
「そう、僕はとても大きいよ。君の事も葉っぱのように軽々と持ち上げる事ができる。」
「本当?」
「片手で持ち上げられるよ。」

女の子は俺の事をまじまじと見て言った。
「あなたの事、知ってる気がする。」
「そうだね、こうすれば分かる?」
俺は女の子にだけ見えるようにサングラスを外した。
女の子は目を丸くした。
「まあ、あなたの事知ってるわ。リッチーね。」
「そう、僕はリッチー。でも今日の名前はライオネルって言うんだよ。」

その時、彼女の父親が戻ってきた。
「ねえ、アール。」彼女は父親の名前を呼んだ。
「彼、リッチーよ。」
彼は相変わらず殺気立っていたが、僕の事に気がつくと驚いて一瞬、緊張をほぐした。
「本当だ。俺、あんたのファンなんだ。」と人懐こい顔で握手を求めた。
「あたしもよ。」と女の子が付け加えた。

「光栄だ。」と僕は言った。
「今日は一人で飲んでるの?」と女の子が尋ねた。
「そう。一人だよ。」
「スターにも一人の事があるのね。」
「そう、スターだからこそ、ね。」

それ以上喋ると、他の客に気付かれそうだったので、僕はまた席に戻った。
戻る際に僕はふと思いついて「これ、あげるよ」と女の子にコインをあげた。
「何、これ?外国のコインね?」
「そう、幸運のお守りだよ。君にグッドラックを。」
「有難う。」

それから僕は今日流れた血のことを何度も思い出しながら、閉店まで一人黙ってバーボンを飲んだ。
次の試合は明日だった。身体を休めるよりも闘いたい。身体が熱を帯びて爆発してしまいそうなんだ。
ああ、血が見たい。

 rrrrrrrrrr

例えば。
ガキが屋敷に落書きをして怒られるだろう?「お前、一人でやったのか?」と聞かれて、そいつが言い淀んでモゴモゴしてると、共犯者を庇っているように見えるだろ?そうすると何故か何もしていないブラザーまで怒られたりするんだよな。

例えば、長い木材を運ぶ男がいて。そいつが振り返った拍子に木材が誰かに当たるとするだろう?
(確か、チャップリンの映画にそんなシーンがあったっけ)
だけれども木材を運ぶ男は、誰かを害した事に気付かない。頭を叩かれた奴も木材がぶつかったとは気付かない。そうすると傍にいた奴が睨まれたりするよな、例え何もしていなくても。チックはそう云う奴だ。
どういう奴?
悪意はないけれど、チックの周囲にいる奴が、此奴がやったヘマの尻拭いさせられるんだ。共犯者にされたり。自分の所為にされたり。そして俺はそう云う奴だ。
どういう奴?
何故かいつも誤解されて、俺が悪い事になっちまう。俺がやったんじゃない、と弁明すれば良いのに、頭が悪くてできねえんだ。そんな二人がブラザーとして組んでみろ。どうなるか明白だろ?そしてシット。
また俺はチックにやられたんだ。チックは金を持って組織から逃げた。組織はチックを殺さなければならない。
そして金を奪い返さなければケジメがつかない。

だから、俺の仕事は二つある。チックを殺すこと。金を取り戻すこと。
ところがチックの間抜けは金を盗まれていた。場末のバーで酒を飲んで、酔い潰れた隙に酔っ払いに持っていかれたんだとよ。百回、死ね、アホ、バカ、マヌケ、ハゲ。

もし、俺がこのまま金を取り戻すこともなくチックを殺したら?
「金は盗まれたんだそうです」なんて誰が信じる?
俺がチックから奪って隠したと疑われるに決まってる。
チックを生け捕りにして「金は盗まれた」と白状させたら?
金を奪った俺がチックに言わせてるに違いない、とやっぱり俺が疑われる。チックはそういう奴なんだ。
そして、俺はそう云う奴なんだ。

じゃあ、どうするって?
探すしかないじゃないか、金を。

rrrrrrrrrrrr

お前の名前は。
と尋ねたら、名前など無いと言う。名前がなくちゃあ不便じゃないか。目の前にいる時は、オイオイで通じたとしても例えばお前がシャワーを浴びている時に、オイオイ呼んでもお前を呼んでいるのか猫を呼んでいるのか分からないだろう?

「それなら猫に名前を付ければいいじゃないの。」
「それなら猫に名前を付けるけれど、お前にも名前を付けてやるよ。」
俺はガキにそう言った。

ガキはテレビのカートゥーンを見ていた。ハンマーで頭を叩かれたキャラクターがゴムのようにひしゃげて、ぺしゃんこになった。
ガキはそれを観て声を出して笑った。
「楽しいかい?」
「そうね、楽しいわ。」
「そんなにテレビは珍しいかい?」
次のシーンではチェーンソーで輪切りにされたキャラクターが精肉されて吊るされた。(そしてすぐに元通りになった。)ガキは声をあげて笑った。

「猫の名前は何が良いかな。」
「何でも良いわよ。」
「お前の好きな名前を付けてやれよ。キキ、とかどうだい?」
「好きな名前なんてないわ。アールが適当に付けてよ。」

現代子ってそういうものなのかね。俺は戸惑っていた。酔っ払って俺は何故か億万長者になり、猫を拾った女の子を拾った。
何故か猫も女の子も俺のボロアパートに住み着いてしまった。汚かった俺のアパートも綺麗に掃除され、何故かレースとかピンクとかフリルでデコレーションが始まっていた。一体俺の生活はどうなっちまうんだ、と俺は途方に暮れていた。
今までの俺には何もなかったし、これからも何もないだろうし、どうせ近いうちに野垂れ死ぬつもりだったから、神様の悪戯で手にした金も、ガキも猫もどうでも良かった。

女の子が料理を作った。
久々に俺は手作りの料理を食べた。
「この黒いのはなんだい?」
「目玉焼きよ。」
「黒いけれど。」
「チョコレートをかけたのよ。そうしたら焦げたの。美味しいと思ったのに。」
「こっちの固いのはなんだい?」
「肉とキャンディを炒めたのよ。」
「そうかい。まあ食べれない事はないぜ。」
「本当?良かった。これ、グミのサンドイッチよ。」
「グッド。でも猫には食べさせない方が良いな。」

rrrrrrrrrrrrrrr

あたしたちはコートを着て街に出た。穴の開いてないコートなんて初めて来た。アールも皺のよっていない服を着るのが初めてのはず。
とにかくあたしたちは、ようやく全うな身なりを整えたってわけ。
神様のお蔭でね。
街はすっかり冬支度をしていて、あちこちにイルミネーションが点灯していた。
あちこちの街路樹にオーナメントが飾られて冬のお祝いをしていた。
アールはポケットに手を突っ込んで背中を丸めて歩いていた。
あたしは猫の入った籠を抱えながら、アールの周りをクルクル回った。
猫の籠にはふかふかする毛布を沢山敷いた。アールもあたしもお揃いの毛糸の帽子と手袋をつけた。(選ぶのが面倒だったし、アールが洋服の選び方なんて分からないって言うんだもの!)そしてお揃いの長靴を履いた。
街はすっかり雪が積もって、うっかりすると滑って尻餅をつく。
最初にあたしがはしゃぎ過ぎて尻餅をついて、それを助け起こそうとしたアールも尻餅をついた。

そしてあたしたちは笑った。

あたしたちは雪玉を転がして街の真ん中に雪だるまを作った。
ちょっと大きめの雪だるま。
「強そう!」
「リッチ―みたいだ!」
あたしたちは笑った。
ちょうど、其処は場末のバーの出口になっていて、あたしが猫を拾った場所で、アールは大金の入った黒い鞄を持っているのに気付いた所。つまるところあたしたちが初めて出会った場所でもあった。だからあたしたちはもう一体の小さな雪だるまも作った。
「これがアール、これがあたし。」
とあたしが言った。
猫がミャオミャオ鳴いた。
「猫の分も作ろう。」とアールが言った。
あたしたちは小さな雪だるまをもう一体作った。猫だ。落ちていた端材で耳もつけた。
それから(ストリートに並んだ店の真ん中にある)チョコレートショップで、チョコレートの詰め合わせを買った。
それを雪だるまの傍に腰かけて食べた。
ミルクの入ったマイルドなチョコレート。真っ黒い色をしたビターチョコ。
キャラメルが入ったり、アーモンドが乗ったり。それぞれが綺麗な造形をしていた。
要するにあたしたちはあたしたちが思いつくままの贅沢をした、ってわけ。

「おや、また会ったね。」と声を掛けられた。
「リッチ―!いえ、ライオネル?」
リッチ―がいた。
「今日もライオネルだ。試合があるんだ、来るかい?」
とリッチ―が言った。
燕尾服を着ている。
「そんな格好だからステージがあるのかと思ったわ。」
「試合に出る時も正装するんだよ。」
あたしはアールに試合に行きたいと言った。
「もちろん。」
アールは答えた。
「応援しているよ、リッチ―。いやライオネルかな。」
「君たちは友人だ。どちらで呼んでくれても差し支えないよ。試合は五番街の『ファイトクラブ』でやっているよ。」
そしてあたしたちは別れた。
悠々とリッチ―はストリートを去った。

あたしはリッチ―を見送ってからアールに訊いた。
「ねえ、あなたはリッチ―が勝つと思う?」
アールはアルコールで上気した顔で答えた。(彼は常時酔っている。)
「もちろんさ!俺の人生に賭けて!」
満面の笑みだった。
人生で失敗し続けて、なお原因を悟らない能天気な中年男の顔をしていた。

でもそれはあたしも同じかもしれない。
あたしたち。
きっと失敗続きの人生、という顔をしているんだわ。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

今日はなんて幸運な日だ!
俺はいつものようにソファに座って街をウォッチングしていた。社会の動向をフィールドワークしているんだ。
おっとあそこの姐ちゃんのスカートは短すぎるンじゃないのか。けしからん。
社会の風紀は乱れているぜ、全くけしからん万歳。と、世の中の淪落を嘆いていたら、ライオネルを見かけた。ライオネルは俺のヒーローだ。ファイトクラブの最強の男。シンギング・ライオネル。そうだ、今日はライオネルの試合だ。
またお前に賭けるぜ。お前の力で儲けさせてくれよ。
今日はどいつを血祭りにするんだ。ああ、なんて今日は幸運なんだ。俺はライオネルの試合が水色のブラジャーの次に好きなんだ。ちなみに一番好きなのはピンクのブラジャーで、その次に好きなものはホワイトのブラジャーだ。水色のブラジャーは三番目。つまり、俺はライオネルが世界で四番目に好きってわけさ!
俺は秘密基地の日課もそこそこに帰社した。
帰社した俺に、ピンクどもが顔をしかめる。俺のボスが俺を呼びつけた。
お前はこんな時間まで何をしていたんだ。
すみません、ボス。途中で腹を下したんです。
お前は以前もそう言ったな。アスホールに栓でもしてやがれ。

 ぷふふとピンク共が笑った。
こいつは今日、群青色のブラジャーを着けている。その隣の笑った奴はホワイトのブラジャーだ。ふん。もっと俺を笑うがいいよ。俺を踏みにじるがいいよ。唾を吐き捨てるがいい。俺の尻を蹴っ飛ばしてくれ。ダメ男と罵ってくれ。もっと軽蔑してくれ。俺はぞくぞくと身震いした。昂ぶる事が抑えられない。早くライオネルが観たい。ベットはいくらにしようか。昂りが、抑えられない。もう有り金全部使っちまおうか。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

リングに上がった俺を客たちが歓声で迎える。トップライトが煌煌と俺を照らした。
俺は彼らに両腕をあげて応えた。一層、歓声が大きくなった。

俺の名前は?
ライオネル!
客たちが答える。
俺の名前は?
ライオネルだ!お前は歌うライオネル!
最強は誰だ?
お前だ!
俺に敵う奴がいるのか?
いない!


そうだ、俺は王者だ!沸騰しそうだ。早くゴングを鳴らしてくれ!

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

人生は何があるか分からないから面白いんだ、なあモック?
俺達は双子だ。シンパシーで結ばれている。俺達の受精卵が何の因果か二つに別れて、二人の同じ人間が誕生したり、同じ女の子を好きになっては取り合ったり、或いは分け合ったり、ちょっとした優等生だった俺達がそれぞれの事情から人生を転落したり。同じファミリーのボスに拾われたり。生き場所をなくしたオペラ歌手が、ファイトクラブの英雄になったり。
本当に人生は奇想天外だぜ。

その奇想天外って奴にひとは夢を見るんだ。このくだらねえ社会がいつか転覆しますように!ってさ。
今日の延長上に予定調和的な明日がくる。その明日が全く別のものに刷り変わりますように!
そこに皆、金を投じるってのがギャンブルさ。ライオネルは俺達に夢を与えてくれる。
生き場所を無くした俺達にとって、アイツは英雄なんだ。俺達は皆、奴が好きだ。愛している。俺達が見つけた時、アイツは薬漬けの廃人だった。金欠で薬が買えず、金のために無茶ばかりしていた。
ファミリーはあいつに生きる場所を与えたんだ。
あいつの子供が死んだ時も。女房が死んだ時も。恋人が次々死ぬ時も。

今日も遺憾無く戦え、ライオネル。人々に夢を与えようじゃないか。不確定の未来のために。
皆、お前が勝つことを信じて疑わない。とうとうオッズも成立しなくなってきた。
なあ、英雄よ。分かりきってる未来なんて、エンターテインメントじゃない。そうだろう、ライオネル?

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

ぶん殴られる度に骨が軋む。大したハードパンチャーだ。全くもっておかしいぜ、こいつ。
どうやら、何か握ってやがる。今日の相手はアフリカから移民したばかりの奴だ、と聞かされていた。イングリッシュもろくろく扱えないらしい。
どんな未開人だと思っていたら、現れた奴は裸で全身に灰汁を塗りたくって頭に鳥の羽を沢山付けたイカレ野郎だった。
得意技は「 bite 」だとよ。未開の猿め。一分で沈めてやる、とゴングが鳴った途端に速攻をかけたら、野郎は俺の目を狙って口から何かを吹いた。一瞬、視力を失った俺の顔面をしこたまラッシュしやがる。野郎の拳が重くて硬い。石か何か握ってやがる。
表の世界なら審判員に訴えて即座に反則負けだろう。だが地下ファイトクラブに反則負けなんて概念は無いんだ。
灰塗りの真っ白な奴の顔がみるみる真っ赤になっていく。そんなに殴ったっけ?もしかして俺の血だ。こんなにも俺は血を流しているんだ。
首を固めた俺の腕に、奴の牙型のマウスピースが刺さった。これも武器になってんのかよ。ダーティな野郎だ。
慌てて離れた俺に奴が襲いかかる。避けようとする俺の、目が霞む。視界が揺らぐ。なんなんだ、これは。もしかして毒?こいつはアフリカでイボイノシシでも相手にしてるつもりなのか。冗談じゃない。ここは文明の最先端の、都会の、真ん中だぜ。
と思った俺のジョーに奴の拳がヒットした。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

なんてことだ!会場は騒擾した。
誰がライオネルの敗北を予見しただろうか。
英雄の敗北に落胆する者が大きなため息をついた。それ以上に自分の賭け金が水泡に帰したことに怒号が飛んだ。
今や会場内は暴動の一歩手前に見えた。誰かが堰を切れば、人々の不満は爆発するだろう。
ライオネルを倒した新たな英雄は(とても英雄には見えない奇怪な面相だが)、空気を察して早々に退避した。客たちがブーイングを飛ばしながらリングにゴミを投げた。
そのゴミがライオネルに堆積していく。
まるで雪のようだ。
と俺は思った。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

あたしは。
アールの手を引いて外に出た。何処でも良いから此処から離れましょう。
ところが、アールの間抜けときたらぼんやりしたまま足取りの遅いこと。
いまの状況が分かっているのかしら? あたしたちはリッチ―に誘われて、ファイトクラブに来ていた。
リッチ―はここではライオネルと呼ばれていた。
そしてオペラの舞台で観る以上に、ここでは英雄だった。
観客たちは誰もがライオネルを観に来ていた。
誰もが彼の登場を待ち焦がれて、ウズウズとしていた。

ファイトクラブの中では公然と賭け事が行われていて、誰もがライオネルに賭けていた。
誰もがライオネルの勝利を信じていた。
アールが賭けようと言った。
「あたしたち、リッチ―を観に来ただけなのよ。」
とあたしはアールを止めようとした。
アールはすっかり上機嫌だった。それくらいリッチ―が好きなんだ。アールもあたしも。それから此処にいる客たちも。

「俺の人生に賭けて、ライオネルが勝つ。」
アールは言った。
「そうやって負け続けて今のあなたがあるんじゃないの。」
あたしはアールを平手でぶった。
「まずは落ち着いて!」

「誰か対戦相手に賭ける奴はいないのか!」
賭けの窓口の男が言った。

客席に戻ったあたし達は双子に話しかけられた。
「こんにちは、お嬢さん」
「ええ、こんにちは」
「ライオネルを観に来たのかい」
「そうよ、ファンだわ。」
「俺たちはライオネルのマネージャーなんだ」と双子が言った。
「俺の名前はモック。こいつはスモッグ。」
「ええ、よろしくね。」
と握手をした。
双子のうち、一人が言った。
「俺の名前はなんだい?」
双子は同じ顔をしている。もし自己紹介をされたばかりでなければ到底見分けは付かないだろう。
「ええと、あなたはモックね。」
「じゃあ、俺は?」
「スモッグだわ。ミスタースモッグ。」
「正解だ」
双子たちは笑った。そしてまた、双子は言った。
「お嬢さん、俺たちにネクタイを選んでくれよ。」
と、何処に持っていたのか丁寧に畳まれたネクタイが幾本か並んだトレイを出した。
あたしはそれらから、双子のためにネクタイを選んだ。
「いいわ。モックはスカイブルー。スモッグはワインレッドよ。」
双子たちはネクタイを着けるとクルクル回った。
「お嬢さん、俺は誰だい?」
「ええと・・・」
と尋ねた。あたしは先ほど選んだネクタイの色で見分けようとした。モックがスカイブルーでスモッグはワインレッド、確かね。
ところが。
「あら!両方ともネクタイがレッドになってる!」
双子たちは笑った。
「マジックさ!」

今度は双子の一人が掌に花を咲かせた。
「どうぞ。レディ。」とあたしに差し出した。
あたしは其れを受け取りながら「ありがとう、綺麗ね。」と言った。
本物の花だった。

大きな歓声が上がったのであたしたちは振り返った。
花道にライオネルが現れたのだ。
ライオネルが両手を挙げて客たちに答える。それをみて観客たちはますます熱狂した。
興奮は絶頂に達していた。 

そして、その後、ライオネルは負けた。
それからは異様な雰囲気だった。人々は熱狂を胸に抱えたまま、その熱狂を不満と怒りに変えていった。
いまにも暴動が起きそうな気配だった。
倒れたライオネル担架で運ばれた。そしてあたしは「掛札」を換金しに窓口に行った。
周囲にどよめきが起こった。
「何事だ」と声がした。
「賭けに勝った奴がいる」
「誰だ」
「酔っぱらいと女の子だ」
「いくらになったんだ」
「相当だ」
細波が次第に大きな海練になっていくように騒擾の中であたしたちに視線が集まり始めた。
純粋な驚き、賞賛、それから嫉妬、やがて怒気。
会場支配人があたしたちを別室に連れて行った。

「まずはじめに」
と別室で会場支配人は言った。紳士的な人物だった。
「あなたの賭け金は外国のコインだったね。」
「そうね。」
「これを何処から貰ったんだい?」
「あたしたちリッチ―から貰ったの。ええとリッチ―ってライオネルのことよ。」
隣にいたボーイが口笛を吹いた。
「このコインはここの会場の中ではとても貴重なものなんだ。」
「そうなの、知らなかったわ。」
「そのコインであなたたちは賭けに勝った。それはとても幸運なことだ。」
アールが赤い顔でしゃっくりをした。
支配人が言った。
「心からおめでとう。」

勝ち金はとても大きな金額だったので、用意には相当な時間がかかった。客たちは次第に帰って扉一枚隔てたファイトクラブの会場は今やすっかり静かになっていた。 そしてあたしたちは配当金を受け取った。

「ねえ、アール」
「なんだい」
「あたしたち、大金持ちになったわ」
「ちょっと前から大金持ちだったじゃないか」
「この前のお金は拾ったものでしょ。でもこれは本当にあたしたちのお金だわ。」
アールはまたしゃっくりをした。
「なあ、ガール。俺たちライオネルに賭けたんじゃないのか。」
「アールがライオネルに賭けると言ったので対戦相手に賭けたのよ。(だってあなたは何もかも失敗する人だし。)誰もライオネルが負けるなんて思わなかったから凄いオッズがついていたの。」
「そうなのかい、いったいいくら俺たちは儲かったんだ。」
「ええと」とあたしは考えてみたが、見当もつかなかった。
「出口まで送りましょう。」支配人は言った。
「そうね、ありがとう。」
あたしとアールは丁重に外まで送られた。
「幸運を」
店の扉が締まった。

一歩、外に出た途端にあたしは恐怖した。こんな大金を抱える自分たちが全く無防備なのだ。半ば暴徒と化した客たちがまだ付近にいるかもしれない。もしあたしみたいな小娘とのんだくれが、自分たちが一生真面目に働いても手にできないような大金を、いまこの場で無造作に抱えていると知ったら?
あたしはアールの手を引いた。
いますぐ、あたしたちは、この場を去らなければならない。

裏通りから、足早に表通りに出た。
「タクシー」
手を振って呼び止めようとする。少し手前にタクシーが止まった。
「早く」
あたしはアールの手を引いてタクシーにドアに手を伸ばした。

そこでもう一つの手とぶつかった。
他にもタクシーを捕まえようとしていた人がいたのだ。
「あら、ごめんなさい。」
あたしは言った。
「おや。」と、その人は言った。

「リッチ―」あたしは言った。
先程までライオネルとして戦い、残酷に倒されたリッチ―だった。シャツに血が付いていた。
「君たちは。」リッチ―は言った。
「また会えてうれしいよ。」

彼はあたしたちの事を覚えていてくれた。そして先ほどの凶暴なライオネルではなかった。紳士で優しそうなオペラ歌手のリッチ―だ。
「そうね、あたしも。あの、さっきは残念ね。」
「見てたのかい?」
「ええ、まあ。」
「そうか。なんだか、ごめんよ。期待を裏切ってしまったね。」
「良いのよ。」
「ところで、僕は理由あって急いでいるんだ。タクシーを譲ってくれないか?」
「そうなの?」
「ここではない何処かに、今すぐ飛び立ってしまいたいんだ。」
「奇遇ね、あたしたちもよ。」
「此処でない場所なら、何処だって良いわ。」

そしてタクシーはあたしたち三人を乗せて走り出した。

体の大きいリッチ―は、タクシーに乗ると窮屈で動物園のクマみたいだった。もっとも、あたしは動物園なんて行った事がないけれどね。
「それなら」とアールが言った。
「行先は決まった。」
タクシーは動物園に向けて走り出した。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

ライオネルが負けた夜に、大儲けした奴がいる。
なぜ、そいつはライオネルが敗北することを予想できたのか。

しかも、そいつはなんと年端もいかぬ女の子だったらしい。
その女の子は大金を持って現れて、そしてもっと莫大な掛金を手に入れたらしい。その女の子の行方を探す者もいたが、彼女が何処から来て何処に行ったのか誰も知らない。
そして、その夜以来、ライオネルの奴も消えてしまった。

街では幸運の女神の都市伝説が広まっていた。
「おい、あんた。その話をもっと詳しく聞かせてくれよ。」
「ああ?」
「最近ついてなくてさ、俺も幸運にあやかりたいんだよ。もっと酔わないと舌が回らないかい?マスター、一杯つけてくれ。高級な奴を。」

日頃、安酒ばかり飲んでいるだろう酔っぱらいは、馥郁とした高級酒が潤滑剤となって気儘なおしゃべりを始めた。
「俺は、あの晩有り金全部をライオネルに賭けたんだ。誰だってそうさ。奴が負ける筈はない。そうだろう、俺たちのライオネルが。そこらの馬の骨に負ける筈がない。」
「でも、負けた。俺は有り金全部、はたいちまったんだ。」
だけれども、俺はそんなしみったれた事、どうでもよかった。俺たちのライオネルが負けた、それが悲しかったんだ。その悲しさを忘れるために飲む酒代がない。絶望だ。酒を無くして俺たちはどうして絶望を忘れられる。」

その時、天使がやってきた。天使は店の裏口から出てきたんだ。
店の支配人が丁重に彼女を送り出した。
本当に子どもだった。
猫を抱いていた。
猫が俺をみてみゃあと鳴いたんだ。それで彼女も俺の事に気付いた。俺はと云えば地べたに足を投げ出して、泣き腫らしていた。他にもそんな奴が何人もいた。猫は、俺たちを見てにゃあと鳴いたんだ。
彼女は支配人にチップを渡した。支配人が彼女をハグした。
それから彼女はもう一回チップを渡して、支配人に耳打ちした。
ドアは一度締まった。
彼女は猫と一緒に足早に去った。誰もいなくなって、俺たちは今見た光景の意味を考えていた。だってあんな小さな女の子がまるで上等の客のように扱われていたんだ。不思議な光景だったよ。それから店のドアが開いた。

ボーイだった。
ボーイは俺たちに蒸留酒の小瓶を渡した。
これもまた、よく分からない話だった。俺たちは確かに悲しみを忘れるためのアルコオルを求めていた。
「金がない」
俺は言った。みんな無くしてしまった。希望とともに。
「心配するな。」ボーイは言った。
「金なら受け取った。」
「誰から?」
こんな俺たちに恵みをくれる人間がいるだろうか。
「さっきのレディからさ。」
「レディ?」
「そう、猫を抱えたレディだ。」
「あの女の子は誰なんだ。」
「分からない。だが、彼女は一晩で大金持ちになったんだ。」
「どういう事だ。」
「彼女はライオネルの負けに賭けていたんだ。それも大変な金額を。店を出る時に彼女は言った。あの人たちにも幸運を、と。だから店はあんたらに酒を振る舞うんだ。」

酔っぱらいはそんな話をして、そして目を瞑った。幸運の女の子の姿を思い出しているようだった。
「ありがとうよ、良い話だった。」俺は御礼を言った。
「マスター、もう一杯つけてくれ。」

握手をして俺はドランカーたちとお別れした。
そして、相棒に声をかける。
「つまり、そういう事さ。世の中の幸福量は一定で誰かが不幸になれば、その分、誰かが幸運になるってことだ。お前が無くした鞄を誰かが拾って幸運になったのさ。」
「じゃあ、どうする?」
「だから、探すんだよ。その幸運の女神と、猫を。ヒントが見つかって良かったじゃないかチック。金を取り戻してもお前は死ぬが、少なくとも俺は生きることができる。」
俺たちは席を立って店を出た。ドアを開けて出ようとした所で双子にぶつかった。
「ああ、ごめんよ。」
「いや、こっちこそ。」
そして俺たちは店を出た。

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

俺たちは店に入った所で見慣れない二人組にぶつかった。
「ああ、ごめんよ」
二人組の一人が言った。
「いや、こっちこそ。」
とモックが言った。
二人がドアを閉めてから俺は店内に尋ねた。

「おい、グラント。さっきの二人組は何をしてたんだ。」
俺は酔っぱらいのグラントに声を掛けた。
「ああ」
すっかり出来上がってやがる。「ん?おいおい。」とモックがグラントに声をかけた。
「いつになく良い酒を飲んでるじゃないか。」モックはグラントのグラスを取って匂いを嗅いだ。「ああ、奢って貰ったんだ。」
「誰に?」
「いまの二人組に。」
「どうしてまた?」
「あいつらは幸運の女の子を探しているんだよ。」
「幸運の?」
「知らないのか?ライオネルが負けた晩に生まれた幸運の天使を。猫を連れた女の子だ。」

あの女の子だ。客席で会ったな。そうか、あの子はライオネルの負けに賭けてたのか。
「みんなあの子を探している。誰だって幸運にあやかりたいんだ。」
「全くだ」モックが言った。
「俺たちだってハードラックさ。」
「なんだい?」グラントが聞いた。
「ライオネルがいなくなっちまった。」
と俺は言った。
「俺たちにキツイ一発をお見舞いしてな」
俺もモックも顔面が青あざで腫れている。
「何だって?」
「あいつは逃げたんだ。俺たちを裏切って。」
「全く以て何て不運」とモックは言って掌からカードを取り出した。
スペードのジャックだ。俺たちは奴を許さない。

「ライオネルなら知ってるぞ。」
酒場の誰かが言った。
「幸運の女神と、猫と一緒に旅に出たんだ。」
「おい、どういう事だ。」
「一緒にタクシーに乗る所を見たぞ。」
驚きのあまり、モックの頭に花が咲いた。
そして俺の懐からウサギが飛び出した。
「おい、モック。」
俺はモックの頭に咲いた花を摘んだ。
薔薇だ。良い花を咲かせやがる。
俺たちにだって棘があるんだぜ。
「どうする?」
俺はモックに尋ねた。
ライオネルに殴られた顔面が痛む。
「決まってるじゃないか。」
モックは言った。そして掌から再びカードを取り出した。
ジョーカー、そしてジョーカー。
「悪い子はお仕置きだよ」

rrrrrrrrrr

何の因果か俺は。
女の子と酔っ払いと遊園地に来ている。

メリーゴーラウンドから女の子と酔っ払いが手を振っている。俺も手を振り返す。メリーゴーラウンドのバロック様式的な装飾は舞台に似ている。

「リッチー?」
子供に声を掛けられた。
母親に連れられている。
「そうだよ。リッチ―だ。」
「ギブ・ミー・ヤー・オートグラフ!」男の子は言った。
「いいとも」俺はペンを取り出した。
「何処に書こうか?」
「へそ!」男の子はシャツをめくった。
「いいとも。可愛いおへそだ。」
俺は彼のお腹にオートグラフを書いてあげた。
「バイ。幸運を。」
男の子と母親は去った。

俺はまた一人になった。
雪が降っていた。
遊園地は銀世界で、アトラクションたちの電飾が雪の中に光っていた。
手持無沙汰になった俺は、雪玉を丸めて小さな雪だるまを作った。
「ミャオ」
女の子の籠の中で猫が鳴いた。
俺はまた雪だるまを作った。
全部で四つ。
ガールとアール。俺と猫。

メリーゴーラウンドが終わった女の子と酔っ払いが帰ってきた。
「愉しかった?」
俺は尋ねた。
「ええ、とても。」
ガールは答えた。
昨日は一日動物園にいて、今日は一日遊園地にいる事にした。
酔っ払いのアールがそう言ったからだ。彼は何一つ取り柄のない男だが、この一行は彼のコンダクタで動いている。
ガールは彼の提案が楽しいようだし、俺も彼女が楽しそうにしているのが、嬉しい。
彼らが遊び疲れるまで俺は彼らに着いていく事にした。
どうやら彼らは有り余る大金を持っていた。そしてそれは俺も同じだった。だが俺達は金の使い方が全く分からなかった。
夜の店を貸し切ったり、俺の薄っぺらい交友関係上のいわゆる友達たちを呼んでパーティーをしたり、豪邸を建てたり、その屋敷を埋め尽くすほどの衣服を買ったりするのはどうだろうか。退屈だ。それらの事はきっと。

ファイトクラブとは既に縁を切った、つもりだ。
金を投じるのに少なくとも今以上にゴージャスな時間があるとも思えなかった。こんな時間が長く続くと良い。

「あら」とガールが言った。
「雪だるまね」
「四つある。」アールが言った。
「君たちと、俺と、猫だ。」と俺は言った。
「ミャオ」と猫が鳴いた。

次にガール達はローラーコースターに乗ろうと言った。
目の前にローラーコースターのレールが見える。立体に組み立てられたレールはあちこち捻じくれて、円を描いたり反転したりしている。そのレール上を電光ネズミのようなカートがビュンビュン回っていた。そのローラーコースターに乗るために人々の列は高く上る階段を少しずつ進んだ。その列に並んで女の子達も階段を少しずつ上った。

そして彼女たちはカートに乗った。彼らは今から起こるミラクルに胸を高鳴らせているようだった。ワクワクしている。と顔に書いてある。
カートがゆっくりと動き出す。長い坂道を上る。
それからカートは滝のように急転直下した。

rrrrrrrrr

人生ってローラーコースターのようね。だって落ちるときは急転直下だし、なんだかよく分からない重力に振り回されてばかりだし。
それを楽しむ人もいて、怖がる人もいるんだわ。無造作に組まれた鉄製の、高い階段をずっと登った所にローラーコースターの乗り場はあった。その階段に長い人の列がいる。あたしとアールは其処に並んでローラーコースターの順番を待っている。

「リッチーも誘ったのにどうして彼はローラーコースターに乗らないの?」
「彼は大人だからだよ。」
「大人だってローラーコースターには乗るわ!」
「そりゃそうだ。じゃあ疲れてるんだよ。」
「疲れなんてローラーコースターに乗れば吹き飛んでしまうのに。」
「大人の疲れは子供の疲れと違うんだよ。」
「それなら観覧車に乗るのはどうかしら」
「リッチーと一緒に?」
「そう。観覧車なら疲れないし、大人だって乗るでしょう?」
「ローラーコースターから降りたらリッチーに聞いてみよう。ほらリッチーが手を振ってるよ。」
「本当。」
あたしたちもリッチーに手を振った。
「ローラーコースターに乗りながらリッチーに手を振ることはできる?」
「やってみよう。」
「どの辺で手を振るのが良いかしら?」
「あの捻りながら一回転する所じゃないか?」
「ジーザス。手を離したら落ちてしまうわ。」
「大丈夫だよ。落ちないように出来てる。」
「どうして?逆さになってしまうのに。」
「見ててごらん。」
アールに言われてあたしはローラーコースターに乗る人々をよくよく見た。「本当ね。いつも手を挙げている人がいるわ。」
「ほらね。」
「練習しましょう」
「いいとも」
「あそこでくるんと回ったら…わあーと、こうよ。」
「わあー、とね」
「そう。」

rrrrrrrrrrrrrr

「メリーゴーラウンドに乗った事あるか?」
俺はチックに聞いた。
「無いな」
「俺もだ」
「どうだい?」
「今から?馬鹿言うなよ。」

俺達は遊園地に来ている。遊園地って所はどいつもこいつも楽しそうな顔をしていやがるな。
「おい、ピエロがいる。」
「あれはクラウンって言うんだよ。」
「同じだろ?」
「違うんだよ。ええとなんだっけな。とにかくピエロとクラウンは別物だぜ。」
「二人いるぜ。あれはどっちかがピエロでどっちかがクラウンなのか?」
「ああ、ありゃどっちもクラウンだ。」
「どこで見分けるんだよ。」
「忘れたよ。」

「ああ、どいつもこいつも楽しそうだな。」とチックが言った。
同感だ。全くどいつもこいつも楽しそうだ。そしてチック、お前もな。
浮かれていやがる。
そわそわと落ち着きなく辺りを見回していたチックが言った。
「アイスクリームトラックがいるぜ」
「いいよ、食べて来いよ。」
「本当?いいの?」
おい、本当に行ったよ。それに、きっちりアイスクリームを選んでいやがる。俺は確か奴に言った筈だ。金が見つかれば殺す、と。だけれど忘れてしまうんだな、あいつは。そう、チックはそういう奴なんだ。肝心なことも忘れてしまう木偶の坊だ。何たる間抜け。

チックはアイスクリームトラックでラムレーズンとチョコミントを一つずつ買ってきた。そして俺にチョコミントを寄越した。俺はチョコミントが苦手なんだよ。歯磨き粉みたいな味だろ?此奴のこう言う所が嫌われるんだ。二つ買ったなら、どちらが食べたいか聞くべきだ。聞かないなら最初に何を買うか聞くべきだ。何も聞かずに買うなら無難なバニラにするべきだ。少なくとも俺の為に勝手にチョコミントを買ってくるのは間違っている。

俺達は広場のベンチに座っていた。
広場では子供たちがシャボン玉を吹いている。先程の二人のクラウンが広場にやってきた。あっという間に子供たちに囲まれた。クラウン達は幾つものボールを同時に投げあって見せた。子供たちは喜んで二人に拍手を送った。そして二人は今度は大きなボールをお尻から取り出して、それに乗って跳ねて見せた。やはり子供たちはクラウンたちに拍手を送った。

「人気者だな」
「そうだな」
俺達とは対極にいる。俺達は誰かから拍手を貰った事なんてあるだろうか。子供たちが寄ってくるなんて事があっただろうか。
俺は心の中でピストルを構えてクラウンを撃った。
バン。
もう一人のクラウンも撃った。
そして隣にいるチックにも銃口を向けた。
俺はチックを殺せるだろうか。
昼間から俺達はこんな物騒な事を考えている。こんな男たちに子供たちが寄ってくる筈はないよな、チック。

rrrrrrrrr

俺は心の中で銃口をバクスターに向けた。

折角アイスクリームを買ってやったのに御礼一つ言わねえ。相変わらず偉そうな奴だ。そういう所が嫌われるんだ。組織から。幹部から。もっとバクスターはユーモアの一つでも覚えた方が良い。気が利く振りをした朴念仁め。博学の振りをした無知蒙昧め。ああ、俺はバクスターを殺す事ができるだろうか。それともやはり殺すことはできないだろうか。
俺たちの周りに子供たちの吹いたシャボン玉が飛んできてパチンパチンと弾けた。
俺たちの下らない人生なんて夢のようだ。パチンと弾けるあぶくだ。

rrrrrrrrr

「アールはローラーコースターに乗ったことある?」
「あるさ、何度だって。」
「怖くない?」
「全然平気だよ。ちょっと賑やかなロッキングチェアみたいなものさ。」
と俺はまた嘘をついた。
ローラーコースターはおろか、遊園地にすら来たことがないぜ。ローラーコースターが恐ろしいか、だって?知るもんか!
所詮、子供のお遊びでメリーゴーラウンドが少し早くなったくらいだろう?俺たちが並ぶ人の列は到頭、高い階段を昇りきった。
ステーションにカートが到着して、俺たちは降りた人々と交差した。
交差した時に若い男と肩がぶつかった。

「ああ、どうも」と俺は言った。
相手の男はちらりとこちらを見て「ああ、どうも」と言って去っていった。隣に若い女がいた。二人は笑い合いながら帰りの階段を降りていく。恋人たちなのだろう。俺達はカートに乗り込んだ。

バーが下がって俺達を緩やかに拘束する。
「いい?あそこの捻る所でわあー、とこうよ?」
「OK、了解だ。」
「もっかい練習する?」
「よし。」
「わあー」
「わあー」
「パーフェクトよ!リッチーは何してるかしら?ちゃんと見ててくれてるかしら?」
「何処かな」
リッチーはまだベンチに腰掛けていた。そのリッチーの傍に二人のクラウンがいた。
「ピエロがいる」
「あれ、クラウンって言うのよ。ピエロじゃないわ。」
「何が違うんだ?」
「知らないわよ」
そしてカートが動き出した。
「出発よ。」ガールが言った。
「おい、大変だ。あの先からレールが見えないぜ。」
「コースはさっきから見てたでしょ?一度上がって急降下してたじゃないの。」
「怖いかな?」
「あなたさっき、怖くないって言ったじゃない!」
「言ったとも。でも俺が乗ったのはイギリス式なんだよ。しかも10年以上昔の話なんだ。蒸気機関車の形をしていてね、そりゃ長閑なものさ…」
などと話をしているうちにカートは坂道を登りきった。道が見えない。いや見える。
なんだこりゃ、下り坂なんてものじゃない。落下じゃないか。
「いくわよ、アール。」
とガールが言った。

結局俺はバーにしがみついたまま、バンザイすることはおろか、目を開けることすらできなかった。こんなに恐ろしい思いはした事がない。
これならストリートで100回凍死した方がマシだね。
ところがガールは悲鳴をあげながらも楽しそうに手を上げていた。信じられないぜ。

だが、俺は見たんだ。落下の直前。つまり、俺が目をつぶっちまう直前、リッチーが二人のピエロ野郎どもに連れられて行くところを。

rrrrrrrrr

黒い鞄を持ち逃げしたアル中と女の子はローラーコースターの順番待ちをしていた。
呑気なもんだ。
チックが俺に尋ねた。「どうする?」
「待とう」
ローラーコースターは上がって下がる急転直下。お前達の人生もな。人生の浮き沈みをとくと味わうと良い。

「ローラーコースターに乗った事ある?」とチックが聞いた。
「ないな。お前は?」
「あるよ」とチックは答えた。

「本当?」
意外だった。俺達は世界の最底辺に生まれて、親もなく学校にも行かず育ったと思っていた。
当然、遊園地など無縁だ、少なくとも俺は。
「本当に?」俺は尋ねた。
「本当さ」チックは答えた。
「誰と?」
「マムさ。」
「お前は孤児じゃないか。」
お前は、俺達は。
「孤児になる前に行ったんだよ。俺は下水道から産まれた訳じゃ無いんだぜ。」
下水道から生まれたと思っていたよ、お前は、俺達は。少なくとも俺は。

俺は冬の朝に孤児院の前に捨てられてたんだ。3歳だ。
俺を見つけたシスターが、親は何処にいるのか尋ねた。3歳の俺は薄手のシャツ一枚で震えていた。

「あっちだよ」
幼い俺はそう答えた、らしい。
「どっち?」
「あっち」
結局「あっち」が「どっち」なのか分からず、誰の迎えも来ず、俺は孤児になった。
よくある話。だから俺は自分の親のことなんて何一つ知らない。そこらの野良犬からでも生まれたんだろうよ。
俺はチックに尋ねた。
「お前のマムは」声が震えているのが自分でも分かった。
「どんな人だった?」
喉が渇く。口の中が乾いて飲み込む唾も無かった。

「そうだなあ。マムに連れられて遊園地に来たのは、俺がまだ本当に小さい頃でさ。俺が乗りたいと言ったものにマムは何でも乗せてくれたんだよ。ラジオカー、メリーゴーラウンド、観覧車。豆汽車、水乗船。あれもこれもと長い一日だったな。そんな中でローラーコースターにも乗ったのさ。」

酔っぱらいどもが並んだ列は高く上がる階段を上りきった所だった。
酔っぱらいと女の子が楽しげに談笑している。
カートがステーションに辿り着いた。
二人は仲良く座って、興奮が抑えられない様子だった。
また雪が降り出した。小雪が遊園地を覆っていく。

「おお、寒い」チックが言った。
灰色の空に遊園地の電飾が光る。
ローラーコースターが走り出した。ゆるゆると坂道を登る。落下するために。
女の子ははしゃいでいるし、酔っぱらいは青褪めていた。
頂上まで来てカートは一度、停止した。それから少し傾いて、その傾きを大きくして大地に向かって落下した。
レールは登ったり回転したり捻ったりしていた。その道筋通りにコースターは目まぐるしく走る。
ああ、人生のようだよ、あれは。まるで俺達の。あんなに滅茶苦茶に振り回されて。
時間にして3分も経たずにローラーコースターはステーションに戻ってきた。

階段を降りて女のコは俺たちの目の前に来た。勿論、俺達に狙われているなど露ほども知らない。
女の子はアル中に言った。
「リッチーがいないわ」
アル中は女の子に答えた。
「連れて行かれたんだ」
女の子がキョロキョロと辺りを見回した。
「誰に?」
「ピエロに」
クラウンだ、俺は思った。
「鞄は残ってる」
女の子はベンチの下の鞄を拾った。
「猫もいるわ。」
籠の中に猫がいた。
「ミャオ」
猫が鳴いた。
「どう言うこと?」女の子が尋ねた。

「その鞄を下に置きな」彼女たちにチックが言った。
不意に話しかけられた女の子は不審に振り返って言った。
「それ、あたし達に言ったの?」

「イエス。勿論。その鞄の中身は金だろう?」
「誰なのあなたたち?」
「その鞄の中身の元の持ち主さ、この泥棒どもめ。」
「まさか。」
「そのまさかさ。ずっと追いかけて来たんだ。お前達の噂を聞いて。ちよっと派手にやり過ぎたな。何処に行ってもお前達の噂で持ちきりだったぜ。昨日は象の前に30分もいたろう。それからキリンに餌をあげたんだってな。白熊にも。」
「あんた達の言ってるのは金の入った黒い鞄の事だろう?」
酔っぱらいの男が言った。
「イエス。」
「その鞄と金なら捨てちまったぜ。」
「嘘だ。」
「嘘じゃないわ。このお金は賭けに勝ったお金よ。拾ったお金は全部元の場所に戻したわ。」
「嘘をつくな。大人しく鞄と金を渡せ。」
「ノー。これは俺たちの稼いだ金だ。お前達の金なら自分達で探せ。」

黒い鞄の金を捨てただと?
俺はチックと彼らのやり取りを聞いていた。そんな話を信じるやつがいるだろうか。
「渡さないなら、撃つよ。」とチックは言った。
俺は考えていた。
俺達は金を探している。そしてその金はこの二人組が持っている。或いは持っていた。それは確かだ。だがもし二人が本当に金を捨てていて、この目の前の金が本当に彼らが稼いだものだとしたら?

俺達がこの金を奪うことは正しい事なのだろうか。

パシウ。
チックが銃爪を引いた。

俺は弾丸の行方を追った。コイツは何処を撃った?


酔払いの男の額に穴が開いていた。
「アール!」女の子が叫んだ。

「何をしている!」
俺も叫んだ。
「何故撃った?コイツらは嘘を言ってない!お前は馬鹿だ。取り返しがつかない。どうして撃ったんだ!」
チックは言った。
「金が必要だ」
「これはコイツラの金だ!」
「金に名前が書いてあるのか」

俺はチックを見た。
奴も俺を見ていた。そう、俺達は見つめ合った瞬間に相手の考えている事が明確に分かってしまう。

相手に向かって銃を構えたのは同時だった。
俺はチックを見た。機械のような無表情の目。
俺達はこんな目をしていたんだな。いつも。
そして俺もいま同じ目をしているんだ。

そして俺達は銃爪を引いた。何度も。
パシウ
パシウ
パシウ
パシウ
パシウ
パシウ
パシウ
パシウ パシウ パシウ パシウ

俺はいま生きているのか死んでいるのか分からない。だが俺は銃爪を引き続ける。少しでも生きる可能性に賭ける。生きたいのか?俺は俺の無意識に問う。分からない。俺の無意識は答えた。死んでも良いかもしれないな。
なあ、チック。こんな死に様が俺達には丁度良いかもしれないな。
俺の銃が空撃ちした。
カチリと腑抜けた音を繰り返していた。
だが俺はそれでも撃ち続ける。
どうだいチック、俺達は。
どうだい、お前は?

rrrrrrrrr

突然自我に目覚めた俺は、俺が一体の雪だるまである事を知った。
早朝、空気は凍えているが本日はどうやら晴天。
視認する限り、この場所は日当たり良好。
どう考えても俺は本日の正午には南中した冬の、暖かな日差しの中に溶けて消える運命だった。

いや。違う。俺は動ける。
俺は朧げな記憶を辿った。
俺はファイトクラブでライオネルにありったけの金を賭けた。
オッズは低いが、それは俺に多少の配当金をもたらす筈だった。
だが、ライオネルは負けた。自暴自棄になった俺はとにかくそれから酒を煽った。
相当に酔った俺は路上で誰彼構わず悲しみを八つ当たりした。

「ファックだ!お前たちは!」
誰彼八つ当たりした俺は、アルコールで霞んだ視界の中、通りがかりにぶつかった男の胸ぐらを掴んだ。
「マザーファッカー!」
随分、大柄な男だった。

その男は俺を見下げて言った。
「失礼、急いでいるんだ。」
ライオネルだった。
呆然とした俺にライオネルは、手刀を一発俺に見舞った。
俺は気絶して、それから俺に雪が降って、俺は一体の雪だるまになった。
雪だるまになった俺は何故か黒い鞄を持っていた。
きっと誰かが、そこらに捨てられていた黒い鞄を俺のものだと思ったのだろう。

意識を取り戻した俺は雪を割って外に出た。
一面の銀世界だった。

ビューティフル。
俺は常に幸福の絶頂にいる。
通りを歩くレディが雪に滑って転倒した拍子にパンティーが見えた。
パンスト越しに見えたパンティーはピンクだ。

人生は最高だ、いつも、常に。俺は幸福と共にある。
手に持っていた黒い鞄には何かがぎっしりと詰まっていた。
なんだいこりゃ。一体何がこんなに入っていやがる。
俺は黒い鞄を開けた。

(了)


小説「スノウマン ライド・オン ジーザス」村崎懐炉
#小説 #詩人 #ネムキリスペクト #雪だるま