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作り悲しみ顔

8月6日朝8時15分、原爆が広島に投下された日。僕はいつものこの時期、広島に行く。なにかを感じたくて。

沖縄の漫才、原発の漫才、すべてはそこにいき、感じることからそれらはできている。

福島や沖縄や広島に行くおれを友達は「村本さんて悲しみを探すナマハゲみたいですね」と言われたことがある。

「かなしいやつはいねえがーー」と言ってるように聞こえるんだそうだ。

なにかを感じ、心がざわついてないと、自分でいられない、漫才なんてできないと思ってる。とにかく、おれは感じたかった。

8月、ライトアップされ、時に、カップルのデートスポットのような扱いを受け、寂しげにみえる原爆ドームを観ながら、あの日、あの時、あんたはここで、何を見たんだ?とおれは原爆ドームに語りかけるように考える。

今年はたまたま、広島の友達が、付き合ってくれるらしく、集まってくれた、そして、原爆ドームの向かいの川辺に座り、買ってきた缶ビールを飲みながら、僕は原爆ドーム見ながらみんなと平和とは、原爆とは、命とは、をずっと語り合った。

ひとりの友達が「わたしはたまに一人でここにきて川に足をつけながら、原爆ドームを見ながら考えるのが好きです」と教えてくれたのでおれも川に入った。

冷たく気持ちよかったんだけど、この川は近くに海があり、海水が混ざってるよ、と教えてくれた、ならば、原爆が投下されて灼熱の炎で全身火傷した人たちは、この川に、我先にと飛び込んだらしい、ならば海水の塩で相当痛くて苦しかったんだろうと、思った。

広島の友達と酒を飲み平和とは原爆とは家族とは、命とは、個人とは、そんな話をビールを飲みながら話す。これをおれは覚えておきたい、と思い「写真に撮って」と友達にお願いした。

その時、その友達が「ビールは隠したほうがいいのでは?」と言われた。

ビールがあるということで「こんな大切な時に酒飲みながら何してんだ」と怒る人がいるかも知れない。川に入ることで「この川では沢山の人たちが亡くなってる、何やってるんだ」と怒る人もいるかも知れない。しかし、おれは思う、この川は夏場は普通に、足をつけて川遊びしてる人もいる、原爆ドームの横には素敵なカフェがあり、そのテラスでお酒を飲んだ人が帰りに、ライトアップされた静かな原爆ドームをみながら思いを馳せることもある。長崎には「バクダンちゃんぽん」なる店があったり、これは不謹慎か?それは違う、彼らはそれぞれの関わり方をしている。

歴史は時間が経てばたつほど、悲しみは風化していくが関わり方が、変わっていってるんだ。

必要なことは「僕らは僕らなりに関わること」だと思う。原爆の話は重くなりがちだ、だから僕は広島の友達とみんなで酒飲んで腹の底から語ろうと酒を買った、ひとりの女性は、この川に足をつけ、亡くなった人たちを考える。だから酒飲んで川に足をつけ、語り合う。

これがおれの原爆ドームとの「いまの」リアルな関わり方だ。だから表面的なところで、不謹慎と発する人たちの言葉は聞こうとは思わない。その話が今日のテーマだ。

おれは前に宮城県の丸森町というところに行った、そこは台風19号の被害にあった場所で今でも一部の街はその時のまま、土砂に埋まった家もある、地元のおじさんにその時のことを聞こうと話をさせてもらった、おれと話してとても楽しそうにしてくださり、彼は終始笑顔だった、その時たまたまおれの日常を撮りたいと、言ってついて来てくれてたドキュメンタリーのカメラマンがいたんだけど、彼をみて「あ、あんまり笑わんほうがええね、、」と言った。

なんでですか?と聞くと、何回か、テレビの取材が来てくれるんだけど、笑ったらカットされるんだ、と言っていた。不謹慎だ、と言う人たちがいるんだろう。彼はいつまで険しい顔をしないといけないんだろう。それはしてるではなく、させられてるんだ。

一年も経って悲しい顔をしてられない、と、彼は本当によく笑う人だった。僕は彼らの話を聞いて、彼らの明るさに楽しくなった、でもおれが笑顔の時にカメラがまわると、おれは、なぜか、険しい顔を作ってしまった。

カメラの圧力だ、被災地では、「作り険しい顔」をしてしまった、それまで、笑顔だったのに。笑う時は笑う、険しい時は険しい、だけど、原爆ドームの前では険しい顔を、ビールを隠し、そのような、顔をし、みてる人に「そうだよねーそうだよねー悲しいよねー」と共感させるごっこに巻き込まれたくない。

おれが、写真で伝えたかったことは、これがおれの関わり方だということ。熊本の被災地で友達のジャーナリストが撮影した人がロレックスの時計をしてたらしい、しかし、番組側はそれを、外させたと聞いた、理由は、「なぜ被災者がロレックスを?金持ってるだろ」と勘違いする人がいるからだそうだ、しかし、そのロレックスは、その人が地震で亡くなった親から受け継いだものかも知れないし、そうでないかも知れない、被災者イコールこうだ、原爆ドーム名前で撮る写真はこうだ、に当てはめようとするやつがいる。

ロレックスに様々あるように、原爆ドームと映る景色に、ビールや水に入り笑顔の男がいるのにも、いろんな理由がある。写真は嘘をつかせる、はい、ポーズ、なんて「ポーズをとらせる」んだ。

みんなでご飯食べてる時に「はい、ポーズ」と言うと、いきなり、グラスや皿を持ったりしてポーズを作る。持つ必要はないだろう、その皿の会社からいくらかもらってんのか?笑 と思うぐらいの持ち方だ。疲れて歩いてる時にカメラをとるよーというと笑顔でピースする。さっきまで死んでるような顔をしてたのに。いま友達同士で写真を撮る時に「マスクをしてから撮ろう」というらしい。「一応、叩く人がいるから」と、それまでマスクしてなかったくせに写真の時だけマスクをする笑

広島の原爆資料館に被爆した人の笑顔の写真があった。あの時でも、笑う人はいる。多分、あの時代こそ「なんで戦後の大変な時に笑ってるんだ不謹慎だ」という人たちはいたと思う。彼らが誰かに、作り悲しみ顔をさせる。彼らがどこかの被災者に被災者のキャラクターをやらせる。おれがもし、あの日、原爆で亡くなった人たちなら川に入るおれをみて「おれ、ここでなくなったんだから、今日は川にはいらんとおいて」とは思わない。

ビール飲んで原爆ドームをみるおれに「なんでビール飲んでんの!お茶でええやん」とは思わない。笑顔をするおれに「ちょっと笑顔にならんといて、もっと険しい顔してよ!」とは思わない。それはそうして欲しい、写真のおれはこうであって欲しい、と思ってる第三者だ。

おれがあの日亡くなった人たちだとしたら、ビール飲んで川に入り、彼らの話を夜中までするおれをみて、羨ましいな、よかったな、笑顔最高だな、と幸せな気持ちになると思う。


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