「何を」より「どんな気持ちで」するかが大事

人間性よりパフォーマンス、生き方・考え方より職業・学歴、そして、気持ちよりもしたこと・実績が重視されるように見える現代社会。「どんな気持ちで」「どんな動機で」が問われることはあまりなく、「何を」したのか、どんな結果を残したのかというのが人を見る基準のようになっているところはありますよね。中身を見る能力もなければ、中身を磨こうという方向に努力しない人がたくさんいて、実績を偽り虚栄を張る人までいます。中身というのは端的に言えば人格や人間性のことで、欲望やエゴのためではなく、愛に生きている人を「中身が素晴らしい人」と言うのだと私は思っています。もちろん、正直さ、倫理観、慈愛といった他の言葉でも表現できると思います。

全く話は変わりますが、最近子どもから学生くらいの方の間ではダンスが大ブームのようで、ダンスが上手な若い方がとても増えたように思います。私はスポーツが大の苦手(というか運動嫌い)で、勝ち負けにも全く興味がないのですが、ダンスはスポーツ競技というより芸術や表現に近いものがあるし、観ていて楽しいので「これはいい傾向だな」と感じていました。そんな中、夏休み中にテレビで高校生のダンス大会のニュースをやっているのを観て、そのレベルの高さに驚くとともに、とにかく優勝に向かって頑張る生徒たちへの違和感みたいなものも同時に感じました。ダンスは他の競技のように勝ち負けがつきにくいものですし、技術的な優劣はあったとしても、それが美しいものであるかや人の心を動かすかどうか(つまり芸術的な観点)はまた別だろうと思ったのです。私には「勝つためのダンス」はあまり美しいと感じられなかったようです。勝つことに執着する姿に「なんか怖い…」とすら思ってしまいました。

「お金のために」、「自分が有名になるために」、「称賛されるために」という気持ちにも同じものを感じます。昔から目に見えない色んなことに敏感ではありましたが、最近はさらにそういった心のありようにも敏感になってきていて、「なんかイマイチ…」と思うもの・ことがわかるようになってきた一方で、本当に邪の心なく清らかな心で作られた・行われたものやことに触れることも増えてきています。本当に美しいものを美しいと感じられる感受性はとても大切だし、そういった感受性がなければ自らが美しいものを生み出すことも不可能です。技術的なものは時間をかければある程度磨くことができますが、内面の美しさはまず自分がその重要性に気付き、高めようとしなければ一生変わることはないものだと思います。

こうして書いてきてみて、私は自分が美しいものを美しいと感じる感受性を失っていないことに、心から感謝の気持ちを感じるようになりました。普段は、この狂った世の中に対する怒りや不満、善良な人々が搾取され活躍できない社会に対する絶望を感じて、正義感が強い真面目な性格であることによる苦しみを感じることも多いです(笑)。しかし、その分世の中にある繊細で美しいものに対する感受性も人一倍強く、そこからたくさんのポジティブな影響を受けていることもまた事実なんですね。いつもお金や名誉のことを考えているような人には感じられない美しさや喜びを感じられているというのは、とても幸せなことだなと思うようになりました。今後の人生でやっていきたいことに、「本物の美しいものに触れたい」というものが加わり、そして自らが「勝ち負け」「お金」「称賛・名誉」の罠にはまらないように、内面を見つめ清めていく重要性を改めて感じたのでした。

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