身分制に学歴に、序列をつけずにはいられない人間様

少し前に書いた大学のあり方に見る「求められる人物像」の変化という記事で、大学の主な設立理由は官僚養成と選抜であり、それが身分制度や藩閥の時代から実力主義や学閥の時代へ変わる変革であったということを書きました。そして現在はどうなったかというと、身分制(血族)と学歴主義と実力主義が混在している世の中だなぁと感じることが多いです。世の中の最トップ層は血族や世襲が主流で、ちょっと下のクラスでは学歴と実力が物を言う世界が広がっているように思います。

これは別の記事にしようかなと思っていたことですが書いてみます。コロナ禍でこれまで以上に大学のあり方に注目が集まるようになり、「もういっそ全部オンラインにしちゃえばいい」、「全部オンラインにして他の大学との単位互換性を高めればいい」など自分なりに色々考えてみたりしていました。「学ぶ」ということを最重視するなら、今の大学のあり方ではまともに学べないと思っています。抽選で落ちたりして取りたい講義が取れないこともある、講座制なので時間割の制約があり、時間帯が悪いと取るのをやめたりする、学びたいことよりも単位の取りやすさで講座を選んでしまったりする、といったことを考えていました。正確に言えば「オンデマンド型」であれば、このような制約はなくなるため好きなことが学びやすいのではないかと考えました。これなら他大学の講座であっても場所の制約がないので問題なく受けられます。そして思いました。「大学という場所を設け、分ける必要はあるのか?」と。講師が個々で講座を配信すればいいだけでは、という考えが浮かびました。

そこで反対意見として浮かんだのが「その大学の講座を受けるには入試に受かる必要がある(から大学が必要だしそのシステムは無理)」ということでした。確かに講義を受ける人の学力が揃っていないと講義がしづらい分野もあると思います(特に理系)。しかし本当に学びたいのならその講義についていこうとするだろうし、ついていけないのなら離脱していくまでのこと。結局、入試や学力選抜というのは、その後の「学歴」を形成するために必要なのであって、「学ぶ」ということに重きが置かれていないのは大学のあり方から見ても明らかなように思います。例えば、本気で紫式部の研究をしたい人がいたとしたら、A大学の〇〇先生の源氏物語の講座と、B大学の□□先生の源氏物語の講座を取れた方が良いと思うんですよね。現状そういった学びに対応できるようにできていませんが、オンデマンドを基本として大学の垣根を薄くしていけば、そういった学び方も可能です。

結局、江戸時代のようなはっきりとした身分制度(当時に生きていないので実態がどのようなものであったかは不明ですが)はなくなりましたし、大学の黎明期において、実力主義は身分制度からの逆転も狙えるという意味で歓迎されていたものと思われます。そこから紆余曲折を経て、1960~1970年代に「偏差値」というものが導入され、大学のブランド化、序列化が進んでいったようです。こうして「教育」や「学び」という人間にとって大切な高尚な分野も、人に優劣をつける序列化の道具に成り下がり、拝金資本主義における人間支配の大きな部分を占める思想になってしまいました。そんな世の中だからこそ、なぜ親は子に「勉強しろ」と言うのかという記事に書いたようなことが起こるわけですね。どんなに学歴を積んでも最トップ層には適わず、支配層は血族(天皇・政治家・企業トップ等)で、その下で働く人間は学歴によって選抜する(官僚等)というのが実態です。組織に入るためには学歴が重要で、そこからは実力というのが日本の主流かと思います。

子どもが親に「勉強しろ」と言われてしまうほど勉強が嫌いになるのは、テストによって点数をつけられ、他人と比べられ、序列化されてしまうからですよね。人間様というのは「誰が上、誰が下」とやらなければ生きていけないものなのでしょうか。優生思想、選民思想と言うと、ナチスドイツなどを思い浮かべますし、強い分離感をもって批判したくなってしまいますが、序列化社会に生きている私たち誰にとっても他人事ではないことであって、一人一人が向き合う価値のある問題だと思います。受験戦争を生きてきた私は特にこの洗脳を強く受けてしまっており、日々振り返りと反省を繰り返しています。身分制、学歴の次はフォロワー数の序列化ですかね。人間の意識が変わらない限り、何らかの形で人間を序列化する営みに終わりはないんだろうなと感じる次第です。

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