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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(38)

第八章 結婚外交(その3)

 その日のうちにパドローガルの銀器はティルムレチスに向けて送り出される。迅速かつ隠密に、しかも傷一つつけぬよう丁寧に扱い、なおかつ警備を厳しくという、かなり無茶な条件だったが、任務を与えられたバグハート忍群は、ティルムレチスへの道筋にあらかじめ人数を配置し、平地は馬、近道となる山あいの間道は人が、次々に荷を受け渡ししながら夜に日を継いで駆け続け、通常なら十日行程の距離を二日半で走破してみせた。
 「よくやってくれた。」無事に銀器が到着した旨の報告がティルムレチスから伝書鳥で届き、アゾル=ザッカをねぎらうティルドラス。そして彼は、いくばくかの銀子の包みを彼に手渡す。「些少(さしょう)だが、皆の者の労に報いてやってほしい。」
 アゾルが退出したあと、ティルドラスに向かってアンティルが言う。「これで国内で行うべきことは無事に終わりました。あとはトッツガー家を初めとする他国に対していかに働きかけるかでございます。」
 「そちらの手筈は任せる。頼んだぞ。」とティルドラス。
 「万全を尽くします。」
 ハッシバル家がトッツガー家に使者を送り、パドローガルの銀器を進物として婚約の履行を求めるという話はたちまち内外に広がる。案の定、ネビルクトンの宮廷は大騒ぎとなり、話を聞きつけたサフィアがティルドラスを呼びつけて詰問するまでになった。
 「呆れてものも申せませぬ。いったい何を考えておられるのですか!」大仰に両腕を広げてみせながらサフィアは言う。「パドローガルの銀器は我が国の至宝。それを、事もあろうに、仇敵たるトッツガー家に差し出すなど言語道断の行いではございませぬか!」
 「お言葉ですが、トッツガー家と誼(よしみ)を結ぶことが悪いこととは思えませぬ。」ここはティルドラスも退(ひ)かない。騒ぎも叱責も最初から覚悟の上で行ったことで、むしろ騒ぎが大きくなるほど世間にその事実が広まって交渉には有利であるとアンティルからも助言されている。「私とミレニアは以前から婚約の仲でございましたし、婚姻に当たって相手の国に礼を尽くすのは他の国への体面を考えてもむしろ当然のこと。そもそも我が国の至宝といっても所詮はただの器に過ぎませぬ。それで両国の友好と天下の信望を得られるのであれば惜しむほどのことはありますまい。――所用もありますので、これにて失礼します。」そして彼は静かに一揖(いちゆう)すると、なおも背後でがなり立てるサフィアには構わず部屋を出て行く。
 この話はカイガー家の国都・トーラウにも伝わった。ジュネと二人きりの席で、顔をしかめながらティムは言う。「ティルドラス伯爵が、トッツガー家にミレニア公女との婚約を履行するよう求めるとのことだ。」
 「存じております。」抑揚のない口調でジュネは言う。
 「しかも、伯爵家の至宝とされるパドローガルの銀器を進物としての申し入れだという。何としてもミレニア公女を正室に迎えるつもりと見える。」
 「それも聞き及んでおります。」
 「難しいことになった。」ティムはかぶりを振る。「もとより正室の地位を得るのは難しいとは思っていたが、側室とはいえ最初の一人となるのと、既に正室がいる相手のもとに側室として赴くのとでは事情が違ってくる。例えばミレニア公女がティルドラス伯爵の正室となった場合、お前を側室とすることを果たして許すものなのか……。」
 父の言葉を上の空で聞き流しながら、ジュネは内心考える。
 ティルドラスに怒るのは筋違いだろう。自分とティルドラスとの縁談は、カイガー家の内部、それも父を中心としたごく一部で取り沙汰されているだけで、カイガー家から正式の申し入れが行われたわけでも、ましてやハッシバル家が了承したわけでもない。そもそも、自分は女としてティルドラスと会ったことすらないのだ。
 しかしいったい、この割り切れない気持ちは何なのだ――。
 「これまでティルドラス伯爵との縁談を考えてきたが、それはいったん白紙に戻し、成り行きによっては改めてケーソン家のクロード公子との縁談も考える必要が……。」ティムがなおも続ける言葉も、ジュネの耳には入っていなかった。
 ティルムレチスを出発した使節団は程なくフォージャー領内に入り、現地の官吏を通じて、トッツガー領に赴くため領内を通過する許可を国都・アッドゥーラの宮廷に求める。
 ハッシバル家とトッツガー家の縁組は両家に挟まれたフォージャー家にとって決して好ましいことではないが、一方で、交戦中でもない限り他国の婚儀・慶弔の使者に対しては一切邪魔をせず、責任を持って領内を安全に通行させるのがこの時代の外交上の作法でもある。ティルドラス個人の使いとはいえ、国主自身の命令により他国に赴く者たちである以上、扱いも公式の使者に準ずるべきということになり、作法に従って警護と道案内のための人数を用意し、彼らを丁重に迎え入れるフォージャー家。
 アッドゥーラに到着した使節団は、警護への礼と表敬のため宮廷を訪れた。国主である侯爵・ダルパットはこの頃体を悪くしていたが、病気を押して自ら彼らを引見する。
 引見の場にはオーエンの姿もあった。最近の彼は、フォージャー家に亡命中のダンの臣下という立場を超え、客卿(かくけい)――他国人の高官として、丞相のコダーイから国政に関する相談を受けるまでになっている。
 『一人として知った顔がない。』ダルパットの前に整列し感謝の意を表する使いの者たちを見ながら、オーエンは内心思う。正使のイック=レック、その弟で案内役と護衛の統括を行うジョー=レック。副使のオルフェ=オールディン。どれも顔どころか名前すら知らなかった人間である。
 引見は挨拶だけで終わり、ダルパットが退出して儀式は終了となる。崩れる人垣の中、正使のイックがオーエンに歩み寄り、「シー=オーエンどのでございますな?」と声をかける
 「いかにも。」頷くオーエン。
 「改めてご挨拶申し上げます。私はイック=レック。ティルドラス伯爵に近侍としてお仕えしております。」
 「ご挨拶、痛み入ります。どうかお見知りおきを。」挨拶を返しながら相手を観察するオーエン。やはり初めて会う相手である。
 「ティルドラスさまからダン公子に宛てての書状を持参しております。お取り次ぎ願えれば幸いでございます。」そう言ってイックは一通の封書を差し出す。一礼して受け取るオーエン。
 そのあと使節団に対し、略式ながら慰労の宴席が設けられた。むろん善意からだけではない。縁談の背後にある意図を探り、情報を引き出し、場合によっては威圧や牽制も交えながらの交渉を行う、そうした油断のならない駆け引きの場である。
 宴席にはオーエンも出席する。列席者たちの探るような視線の中、それでも使節の三人は、あくまでも礼儀正しく、周囲からの棘を含んだ質問にも無難かつ穏やかに答え続ける。
 「両家の縁談がフォージャー家の不為(ふため)になるのではないかとのご懸念があるかと存じますが、もともと今回の話は、ティルドラス伯爵のミレニア公女に対する純粋な誠意と愛情からのもの。決して邪(よこしま)な意図あってのものではございませぬ。」とイック。
 「我が国はティルドラス伯爵と跡目を争ったダン公子をお世話しておりますが、それについてのティルドラス伯爵のお考えはどのようなものでございますかな?」揺さぶりをかけるつもりか、一座の中からきわどい質問が飛ぶ。
 「貴国がダン公子を保護し、さらに手厚く遇していただいていることに、伯爵は大いに感謝しております。」落ち着いた様子でイックは答える。「跡目を争ったとはいえ、ダン公子に対するティルドラス伯爵の態度は寛大なもの。本日オーエンさまにお預けしたダン公子への書状にも、国に戻り母であるメルリアンさまに尽くすようにとあります。」
 オーエンは頷く。ダンに宛てたティルドラスの書状にはこうあった。行きがかり上跡目を争うことになったのは残念だが、今の自分にはお前を恨む気も咎めるつもりもない。オーエンやアクラユについても罪を問うことは一切ないゆえ、国に戻り、母上に孝養を尽くしてはどうか――。
 ちなみに、それを読んだダンは、しばらく黙然と考え込んだあと、書状をくしゃくしゃに丸めて屑籠に放り込んだ。
 「首尾良く縁談がまとまったとして、ティルドラス伯爵はトッツガー家とどのような関係を結ぶことを望んでおられるのか。例えば我が国に対してはどのような姿勢で臨まれるおつもりか。」別の列席者がイックに質問する。
 「例えば先年のフィリオの戦いでございますが、あれも本来は国境の些細な水争いから始まったもの。大事に至る前にいずこかの国が仲裁に動いておれば、戦にまで至ることは防げたはず。それができなんだばかりに弟であるダン公子を危険にさらしてしまったと、伯爵は悔やんでおります。縁談がまとまりトッツガー家との関係が深まれば、おそらく伯爵は、トッツガー家と他国、例えば貴国との間に争いが起きた場合、間に立っての仲裁を積極的に行うことを考えておりましょう。」とイック。
 それが事実とすれば、ティルドラスとミレニアの縁組は、むしろフォージャー家にとっても望ましいことなのではないか――。一座にそんな空気が漂い始めたのを見計らって、イックは切り出す。「此度(こたび)の縁談に対しフォージャー家の口添えをいただけるなら、話はより順調にまとまりましょう。お力添えをいただければ幸いでございます。」
 宴席が終わり使者たちが退出したあと、オーエンに向かって丞相のコダーイは言う。「ハッシバル家の思惑に乗るのは不本意とはいえ、ここで恩を売っておくのも悪くはありませぬな。トッツガー家への申し送りには両家の縁談を後押しする旨の文言を入れることとしましょう。――しかし、チノーもなかなかやるものですな。」

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