見出し画像

時事無斎ブックレビュー(6) 夢オチ作品傑作撰

 小説・マンガなどのストーリー作りでタブーの一つとされるのが「夢オチ」です。
 理由は色々とあるでしょう。リアリティや話の整合性が疎かになる、いくらでもご都合主義の展開ができてしまう、夢と明かされた時点でそれまで積み上げてきたストーリーが全てご破算になってしまうなど、安易に使えば簡単に話が壊れてしまう要素は確かに少なくありません。
 では、夢オチ作品に名作・傑作がないのかといえば決してそんなことはなく、古典とされる作品の中にも夢オチを生かしたものは少なくありません。今回はそうした夢オチ作品の傑作について、思い当たるものを紹介したいと思います。


1.ルイス=キャロル『不思議の国のアリス』

 夢オチ作品の代表といえば何をおいてもこれでしょう。著者自身が「大して売れないだろう」と期待もせず世に送り出したにもかかわらず、著者の生前から今に至るまで売れ続け、小説・映画からマンガ・アニメ・ゲームまで数え切れないほどの作品の元ネタにされてきた本です。
 時計を手に「遅れる、遅れる」とつぶやきながら走っていく白ウサギを追いかけて穴に飛び込んだ主人公・アリス。そこに広がっていたのは駄洒落と不条理の不思議な世界だった。次々と彼女の目の前に現れる奇妙な登場人物と不思議な出来事、その合間に歌われるナンセンスな詩――。
 詳細については今さら触れるまでもありませんが、ここまで不条理で幻想的な、それこそ夢としてでなければ語れない世界を構築できたのは、著者の本業が数学者だったことも大きいように思います。徹底した不条理を描くには、逆に相当に論理的な思考が必要とされるものなのです。その話についてはいずれ機会があれば。

2.モーリス=メーテルリンク『青い鳥』

 こちらも夢オチの代表としてよく名前が出る作品です。
 病気の子供のために幸せを呼ぶ青い鳥を探してきてほしいと頼まれたチルチルとミチルの兄妹は、不思議な帽子の力で様々な世界を渡り歩く。しかし、そこでの出来事は決して楽しいことばかりではなく、恐怖や悲しみも味わうことになる。行く先々で出会う青い鳥も、捕まえても死んでしまったり別の鳥に変わってしまったりで手元に残らない。
 結局青い鳥を持って帰れないまま目が覚めてみると、自分たちの家の鳥かごの中にいた鳥が青い鳥に変わっていた。幸せは、どこか遠くの知らない世界ではなく、自分たちのすぐ目の前にあったのでした――。
 『不思議の国のアリス』との大きな違いは、最後で現実が夢とシンクロすることでしょう。以下に挙げる作品にもこのパターンは多く見られます。

3.宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

 いちおうハッピーエンドの形で終わる『青い鳥』に対し、夢から覚めた後に悲しい結末が待っているのがこの『銀河鉄道の夜』です。
 学校でも放課後の仕事先でも周囲になじめず孤独な日々を送る遠洋漁船員の息子・ジョバンニ。たった一人の親友は博士の息子であるカムパネルラだった。星祭りの晩に友達の輪に入れず、独り草原で寝転がっていた彼は、いつの間にかカムパネルラと共に、星空を行く列車に乗っていた。窓から見える星の世界の風景と途中止まる駅で起きる様々な出来事。だが、その中で、カムパネルラは忽然と姿を消してしまう。そして、目を覚ましたジョバンニは、カムパネルラが川に落ちた友人を助けるため自分も川に飛び込み、そのまま行方不明になったことを知るのだった――。
 それぞれ内容が異なる異稿がいくつかあり、現在の形が果たして宮沢賢治が意図した最終形なのかも議論があるようですが、取りあえず最も一般的と思われるストーリーに基づいてあらすじを書いています。出典とした下記の全集には異稿も収録されていますので、興味のある方はそちらを参照下さい。

※こちらは宮沢賢治全集全巻セット(ちくま文庫)

4.E=T=A=ホフマン『くるみ割りと鼠の王様』

 前回のブックレビューで名前が出たチャイコフスキー作曲のバレエ音楽「くるみ割り人形」の原作です。ただ、名前はやたら有名な割に、他の作品に比べ正しい内容を知っている人が少ないように思います。バレエ版のストーリーも原作からかなり改変されており、子供向けの絵本では最後が本当に「全部夢でした」の夢オチとして書かれているものも少なくありません(というより、本来の結末で終わっている絵本を目にした記憶がない)。ネット上の作品解説でも、明らかに読まずに受け売りだけで書いたらしい、単なる「夢の中での不思議なお話」にされているものを見かけました。
 実際のストーリーはかなり複雑で、どこまでが夢でどこからが現実なのかが曖昧なまま展開し、さらに途中で話中話として語られる「かたいくるみの物語」が後から物語の本筋に絡んできたりと、簡単に説明できる内容ではありません。最後も「夢と思ったのが実は本当だった(たぶん)」という結末になっています。
 子供の頃の愛読書だったこともあり、この作品については、本来のストーリーの紹介を兼ねてどこかで改めて語りたいと思います。

5.沈既済『枕中記ちんちゅうき

 次の『南柯太守伝』と共に「邯鄲の夢・南柯の夢」として人生のはかなさを表す故事成語になっている話です(ただし、話の方向性は微妙に違う)。
 仙術を身につけた道士・呂翁りょおう邯鄲かんたん(現在の河北省邯鄲市)への旅の途中、という書生と出会う。宿屋で飯が炊き上がるのを待つ間、蘆は呂翁に向かって自身の不遇を嘆き、科挙に合格して役人となり偉大な業績を上げて富も名声も手に入れるつもりだったのに、果たせぬまま齢を重ねてしまったと語る。その彼に一つの青磁の枕を手渡す呂翁。蘆がそれに頭を乗せると、枕に開いた穴の向こうにもう一つの世界が現れた。蘆はそこで科挙に合格して役人となり、出世し、栄光と没落を繰り返し、その中で故郷での貧しくも平穏な生活を懐かしみ、やがて年老いて死んでいく。
 目覚めると、そこはもとの宿屋で、宿屋の主が炊きかけていた飯さえまだ炊き上がっていなかった。全てが夢であったことに気付いて呆気にとられる蘆に、呂翁は「人の一生もまたそういうものなのだ」と言い聞かせる。その言葉を聞いた蘆は、呂翁が自分に人生の全てを教えてくれたことに気付き、感謝の言葉を述べて去っていくのだった――。
 千年以上前の作品とはいえ、主人公の蘆のような鬱屈を抱えている人間は現代にも数多いでしょう。そういう人たちが呂翁の枕で眠りについたとして、彼らは一体どのような夢を見るのか。それを題材にしたオムニバス作品なども作れそうです。

6.李公佐『南柯太守伝』

 全てが夢の世界の出来事であったことが明らかにされる『枕中記』に対し、こちらは夢と現実の境が曖昧な作品です。
 豪放な性格が過ぎて軍の仕事を罷免され、故郷で鬱屈した暮らしを送っていた淳于生じゅんうせいは、ある日庭のえんじゅの木の下で酒を飲んで寝入っていたところ、突然、自分を迎えにやって来た二人の使者に連れられて槐安国かいあんこくの王のもとに案内される。そこで彼は国王の娘と結婚して南柯郡なんかぐんという地方の太守に任命された。そのあと二十年に渡って南柯郡を治めて声望を得たが、やがて妻の王女が亡くなり、さらに占い師が「他国からやって来た人間のため国にわざわいが起こり都を移すことになりましょう」と予言したことで、子供たちを残して故郷に帰されることになった。別れ際に国王は彼に向かって「三年後にまた会うことになるだろう」と告げ、彼を家に送り届けさせる。
 目覚めると、そこはもとの自分の家で、樽の中の酒も残ったままだった。彼の話を聞いた友人たちは槐の木が妖怪となって悪さをしたのではないかと疑い、木を倒してしまおうとその根元を掘り始める。するとそこに巨大な蟻の巣があり、その様子は夢で見た槐安国の都そのままの姿をしている。淳于生は夢の中で蟻の国を訪れ、そこで暮らしていたのだった。さらに穴をたどっていくと南側にもやはり蟻の巣があり、そこが彼が治めていた南柯郡だった。
 淳于生はそのまま巣を埋め戻させたが、その晩嵐が起こり、翌日、蟻たちは姿を消していた。そして淳于生も国王が言った三年後に世を去る。全て予言の通りになったのである――。
 なお、出典とした岩波文庫『唐宋伝奇集』には、上の『枕中記』とこの『南柯太守伝』を初め、「運命の赤い糸」伝説のもととなった『定婚店』や芥川龍之介による翻案で知られる『杜子春』、「児雷也」の元ネタである『我来也』などの話も収録されていますので、伝奇小説に興味のある方は読んでみてはいかがでしょう。

※こちらが下巻。ただし『枕中記』『南柯太守伝』はどちらも上巻に収録

7.落語『天狗裁き』

 正確に言えば夢を題材にした「回りオチ」(話が一周してクライマックスで最初の状態に戻る)に分類されるのでしょうが、例として挙げておきます。
 寝ていたところを妻に揺り起こされて「うなされてたけど、どんな夢を見てたの?」と尋ねられた主人公。しかし思い出せず「夢は見ていない」と答えた。すると妻は隠し事をしていると邪推して怒り出し、夫婦喧嘩になってしまう。隣の主人が聞きつけて取りなそうとするものの、彼も夢の内容を知りたがり「夢は見ていない」と言われてまた喧嘩になってしまう。そこに家主が駆けつけて仲裁に入るが、またまた夢の内容を知りたがったため喧嘩になり、家を立ち退くように言われてしまう。
 そんな理由で追い出されてたまるものかと主人公は裁判に訴える。裁判官のお奉行様は、最初こそ主人公に同情的だったものの「奉行になら話せるであろう」とやはり夢の内容を訊いてくる。「夢は見ていない」と答えたところ、お奉行様は怒り出し、主人公は縛られて庭の木に吊されてしまう。
 主人公が途方に暮れていると、突然体が浮き上がり、どこかの山奥へと運ばれていった。驚く彼の前に天狗が現れ「奉行が非道なことをしていたので助けてやった」と言う。だがその天狗も、やがて「話すというのであれば聞いてやっても良いぞ」と夢の内容を知りたがりはじめた。やはり「夢は見ていない」と答えた主人公に、天狗は「天狗を侮るなら八つ裂きにしてくれよう」と、鋭い爪の生えた手で喉元を締め上げてくる――。
 その時、主人公は妻に揺り起こされて目が覚める。「うなされてたけど、どんな夢を見てたの?」
 蛇足ながら、考えてみると落語で夢オチの傑作というのはあまりないような気がします。「宮戸川」「鼠穴」などは無理やり夢オチで終わらせたせいで逆に話がつまらなくなってしまった例でしょうし、「夢金」も「欲の深い船頭が大店のお嬢さんを助けてお礼に受け取った金を握りしめて喜んでいたら、実は全ては夢で握っていたのは自分のキンだった」という下ネタで、それほど面白い落ちではありません。その中で、この「天狗裁き」は例外的によくできた夢オチの例なのではないかと個人的に思います。

※Amazonでの検索結果はこちら

 こうしてみると、夢オチの傑作は、後からつじつま合わせに夢を持ちだしてくるのではなく、最初から夢オチを前提にきちんと計算してストーリーを組み立てていることが分かります。夢オチが前提となる代表的なパターンとしては次のようなものが考えられるでしょうか。

・夢だからこその不条理で奇妙な世界を描く(1~4、7)
・夢のようで、そこでの出来事が現実と対応している(2~4、6)
・夢に仮託して作者の思想や願いをそこに盛り込む(2、5、『荘子』の「胡蝶の夢」のエピソードなど)

 ですから、本当にタブー視されるべきなのは実は夢オチそのものではなく、夢であることを言い訳にご都合主義の展開を重ねたり、収拾が付かなくなった話を後付けで「夢でした」とごまかしたりすること(夢オチ以外に、最近、いわゆる異世界転生ものの作品で「そういう世界だから」を言い訳にこれをやる例があり、個人的に苦々しく思っています)ではないかと思います。逆に、上に挙げたような夢オチの特性を把握して作品の中にうまく盛り込むことができるなら、夢オチは特にタブー視すべきものではない、というのが私の考えです。皆さんのお考えはどうでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?