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幸せはカネじゃなかったということなのか

長崎の軍艦島(端島)クルーズにいってきた。

廃墟オタクと釣りキチたちにはよく知られていたが、
2000年に世界遺産に登録されてから、
クルーズ船を運行する会社が4社もできたぐらい、
人がどんどん訪れるようになった。

軍艦島に初上陸

長崎港から18km、実際に行ってみると、なかなかの迫力だった。
びっしりと建物が立っている。
崩れ去っているものある。
炭鉱施設と住宅のほかに、
役所、交番、公共施設、床屋、映画館、スナック、パチンコ屋、麻雀、ビリヤード、などがあった。炭鉱が三菱でパチンコ屋も三菱の経営。
うまく出来てるなあ、と感心した。

軍艦島は最初は「島」ではなく「岩礁」。
1893(明治26)年から1931(昭和6)年まで6回にわたって埋め立て。
軍艦島は昭和にできたのかと思ったら、
始まりは明治、
そして日本で初めて鉄筋コンクリート構造の高層アパートが建てられたのが大正、
人口が増え人口密度が高かったのが昭和、
ということになる。

明治、大正、昭和

明治。三菱の岩崎家が長崎で炭鉱開発。
中国との貿易(上海航路)、東京丸の内の都市開発、
そして長崎の炭鉱が今の三菱の基礎を作った。
軍艦島も、そのひとつだった。

大正。1916(大正5)年、日本で初めての鉄筋コンクリート構造、
7階建ての高層アパートを建てる。
東京青山の同潤会アパート(いまの表参道ヒルズ、ああ懐かしい……)
が1926年だから、その10年前に、軍艦島には超モダンなマンションが建った。

ちなみに、4階建ての同潤会アパートは、
外観も内装も洋風なテイストをなびかせて、
食事をちゃぶ台からテーブルに、
リビングを座布団からソファーに変え、
人々のライフスタイルをヨーロピアンにシフト、
憧れのタワマン生活の走りだった。

一方、軍艦島の日本最高の7階建てタワマンは、
一世帯6畳の部屋ひとつしかなく、
そこに5人家族がごちゃ、っといて、
共同トイレ、共同キッチン、共同バスルーム、
わいわいおしゃべりしながら家事や生活をしていた。
こっちは、シェアハウスの走りである。

サッカーのピッチに1000人がいる人口密度

軍艦島の人口は1960年に5,267人で最多となる。
面積0.063km2のなかに5,267人なので、
人口密度は83,603/km2となる。
サッカーのピッチに1,000人がいる計算らしい。
同じころの東京は、人口9,683,802人、人口密度4,435人/km2で、
軍艦島は東京の18倍も混み合っていた。

なんでこんなに人が多くなったのかというと、
ひとつは、高度成長期に石炭需要が増えて、
石炭を増産しなければいけなくなったこと。

もうひとつは、軍艦島の炭鉱は給料が良かった上に生活補填が手厚かった。
基本給などは公表されてないが、
家賃は約10円、水道代と光熱費はタダ、
1949(昭和24)年には「端島手当」出勤1日につき32円もでていた。
シェアハウスに住んでいるんだけど、金銭的に豊かな生活ができ、
テレビの普及率が全国で10%しかなかったときに、
すでに軍艦島ではほぼ100%、すべての家庭でテレビを楽しんでいた。

だがしかし、1970年代にはエネルギーは石炭から石油に変わり、
1971年、軍艦島の炭鉱は閉鎖。
同時に、住民は次々に島を出て、誰もいない無人島になった。

時代の流れをすんなり受け入れて、
崩落が進むままになっている軍艦島。

ある程度の人数が減ったところで、
新しいことを始めればよかったのに。
インフラは整っていたし。

それともやはり、台風で高波が直撃するような自然環境の厳しさ、
プライバシーはなにもないいような住環境、
仕事場での上下関係が生活にまで続く人間関係、
中学校までしかない教育環境などなど、
もうこれ以上はムリだと、ほとほといやになってて、
しょせん幸せはカネじゃなかった、ということだったのか。