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「諦めたら試合終了」は、「諦めなければ試合は終了しない」ではありません。

諦めたらそこで試合終了なのか、それとも諦めてからが本当の試合開始なのか。意見が分かれるところだ。なぜならばどちらの人も実体験からそう思っているだろうから。

出会いが多い人ほど婚期が遅れるという説があるが、「もっと」という名の可能性に開かれていればいるほど、決定を下すのは難しくなるということだろう。

また完璧主義の人ほど、「あれもしたほうがいい、これもしたほうがいい」と選択肢は増えていくため、始める前からタスクの量を増やしてしまい行動に移す事が億劫になったりする。過去を振り返っても「ああもできた、こうもできた」と、「もっとできた」ことばかり目が向いてしまって辛い。

パートナーにしろ、何かゴールを目指す際のアクションプランにしろ、元から選択肢が少ない方が決めるのは楽、つまり選択肢は多過ぎない方がいいというのは行動経済学ではよく言われている事である。

それでも、

「私は運命のパートナーとの出会いを諦めない。」
「ゴールに辿り着くまでは絶対に諦めない。」

という方が、かっこよい。

これは俗世間的な美学の問題でそうなってしまうところがあると思う。諦めが悪い男が皆、スラムダンクの三井寿みたいだったらという仮定のもとにだけこの美学は通用するわけだが。

ただ、現実はそうなっていない。だからこそ落ち込み、焦り、失望し、そしてまた何度でも不死鳥のように蘇る三井の姿に人は憧れ続けるのだろう。

では現実の人生を豊かに過ごすためには、どんな風に「諦め」とつきあったらよいのか。この答えは、「諦めたら試合終了」という安西先生の言葉の意味を深読みしてみることからヒントが得られるだろう。

「諦めたら試合終了」というのは、「諦めなければ試合終了ではない」ということにはならない。なぜなら、諦めても諦めなくても試合はいずれ終了するからだ。絶対に。

ぼくはこのことに気づくことが健全な諦めだと思うのである。

「いずれ試合は終わる。」
「試合時間には限りがある。」
「できることには限りがある。」
「自分の能力や体力には限りがある。」

そのように現実を諦めている、受け入れているからこそ、「だとしたら今感情的になっている自分が、急いで諦める・諦めないという二者択一をする必要がどこにあるのだろう?」そう思えるからだ。

この『諦めのパラドックス』に気づくことは、安西先生のアゴをビヨンビヨンすること以上に大事なことだ。

精神科医の名越康文さんの著書の中に「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」というタイトルの本がある。中身は読んでいないがぼくにはこのタイトルが、「どうせ死ぬから生きるんでしょう」に聞こえる。

人生などといってみても、その実体は小さな選択の連続である。例えば「今日のランチは何を食べよう」というのもその一つで、「どうせ全部は選べないし、食べられない」と最初に『諦め』というクーポンを適用することによって、選ばれなかったラーメンではなく、選んだ方のハンバーグを楽しむことができるのだ。

ありがとうございます。きっとあなたにいいことがあります。