短歌に出会って、はや1年。
角川武蔵野ミュージアムで、言葉を浴びるような本棚を背にしてから1年が経とうとしています。去年の3月、念願の場所を訪れて、いつもよりテンション高く写真を取り合っていました。なんだかもっとずっと前のようにも思います。
あの日何気なく手に取ったのが、俵万智さんの『サラダ記念日』でした。
それまでは短歌なんて全然興味がなかったのに、心を掴まれて自分でも始めてしまいました。家までの帰り道は言葉が浮かんだら足を止めて、数メートル進むと止まってスマホに打ち込むほど。
決して上手じゃなくても、言葉さえわかれば繋いでいける。
短歌をもっと難しい古典だと思っていたぶん、自分にも扉が開かれているのが嬉しいのです。私もその感情知ってる!私にも読める言葉しかない!
私も書いてみたい!と、そんなふうに?
わけがわからないままに書き残して、noteにまとめました。その未熟な記事がnoteの編集部のおすすめに選ばれたこともあり、ますます短歌にわくわくさせられます。本当に、こういう時noteさんは書いて良かったって思わせるのが上手いですよね。
そこから、短歌を知るためのいくつかの本を読みました。木下龍也さんの本は、勢いも繊細さも兼ね備えていて、特に何冊も集まっていました。
31文字で、見る人をハッとさせることができます。キュンとすることも、ぎゅうっと悲しくなることも。
でも文字数が限られるぶん自分の感性がむき出しになってしまうし、言葉に対する感度や視点も現れます。自分の言葉の100%が読者に見透かされてしまう感覚。
自分が描きたかった情景が他の人によって鮮明に、そして上手な言葉選びで31字に落ち着いていると、くうっとなります。悔しいけど、自分にはできなかった。けれども書き続けなければ足が止まったも同然だと感じて、追われるような気持ちもします。
好きになって、ルールも何も知らないままに貪るように詠んだり、上手い人たちをたくさん知って落ち込んだり。何かに夢中になるって感情が大忙しなんだよなと思い出しました。
こういうとき、作り手として好きになってしまうと、下手っぴでも悔しくても続けざるを得ないんです。続けなければもう「作り手」ではなくなってしまうし、ずっと上手くなることもない。進み続けないと見えない景色があるのが、体感としてわかってしまうのです。
「写真と短歌のやつ、好きだよ」ある時友人に言われた何気ない言葉で、私のエンジンは再び勢いよく燃え始めました。
前ほど手当たり次第に歌に詠んでいないけれど、好きな表現であることを忘れたくないなと思いました。これからもたくさんの人の言葉に打ちのめされながら、それでも読み続けるのだと思います。至極の一句を目指して。
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