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亡くなってから初めて、祖母の夢を見た日

なんだか、悲しいことばかりを書くのは申し訳ないなあみたいな気持ちがありました。だから、このnoteも出すか迷ったんです(そして、迷った末の有料note)

自分のnoteなのになんで、って言われたら、よくわかりません。

暗い話が聞きたい人はあまり多くないと思うし(少なくとも私は、常時悲しい話とか愚痴を聞いていられるタイプじゃない)、その中でも人の死が題材になるものは、誰かの悲しみを想起させてしまうかもしれないという怖さもあったと思います。

弱い部分がだらだらと流れ出すことにも、私の文章が祖母の死を変に脚色したり食い物にしたりすることにも、怖さがありました。

発信もせずに淡々と向き合うべきことなのかもしれない。そういう思いがあったからこそ、書くことに慎重になってきたんだと思います。

でも、一ヶ月が経って、やっと少しずつ言葉にできること、できないこと。大切なこと、振り返らずに進めることがつかめてきたような気がしています。

だから少し前に書いたこれも、今ちゃんと書ききっておこうと思ってアップすることにします。


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後悔していることがある。祖母が亡くなってまだひと月は経たないけれど、ずっと口に出せずにいたこと。大切な人が亡くなるときに後悔のない別れなんて難しいと知りながら、それでも悲しくて仕方なくなる。

大学生になってから、大人になってから、祖母と接した時の記憶がほとんどないのだ。ラインを見ると、連絡をとっていたらしい。写真を見ると、お正月と誕生日には集まっていたらしい。全く会っていなかったわけではない。

けれども、私が祖母の元気な姿と言って真っ先に思い浮かべるのは、小学生くらいまでの祖母なのだ。にこにこといつも美味しいご飯を作ってくれて、心配性で、それでぎゅっと抱きしめてくれた60代の祖母。

なんでこんなにも思い出せないのだろう。面倒がって祖母の家に行かなかったことがじりじりと私を追い詰めている。家族が遊びに行く日も、バイトだサークルだと断っていた大学生。社会人になって、ちゃんと会話したことはどれくらいあっただろう。スマホに遊びに行った時の記録は残っているのに、記憶からはこぼれ落ちている。それがとても悔しい。


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