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弱者への対応

看取りを通して

世の看護師さん、看取るときどんな気持ちなんだろう。私は、「あー、これはもう数分だな」ってときはドキドキして、亡くなってしまった後は「この人の人生のたった数日だけど、その数日に私はどれだけ誠意をもって接することができただろう」ってよく考えます。あとは「お疲れさまでした」と思いながら、「その人はどんな人生を送ったのか」に思いを馳せる。緩和病棟には行ったことないから、いつもそんなに「その人の人生」にまで向き合ってはいなかったもので。

急性期の心がすり減った看護師さん、内心怖いこと思ってそう。私の想像ですが「自分の勤務内ですべてが終われるタイミングで亡くなってくれないかな」とか。そう思い始めたら危険信号だね。休んだ方が良いね。

学生の時、看取りであっても看護師は泣いちゃいけないと思ってました。まぜか作業療法学科の男の子とそんな話になって、その子に「なんで?」って言われて答えられなかったのを覚えてる。

今なら答えられる。

なんか、ご家族が泣いてらっしゃる時、看護師も泣いたら「わかるよ」って言葉と同義な気がしちゃうんです。でも、実際は「わからない」んですよ。人の気持ちなんて、どんだけ寄り添おうとしたって100%分かることはあり得ない。だってその人と立場も違えば感じ方も違うから。

例えばAさんという人が事件の被害にあったとします。で、あり得ないけどBさんという人もAさんと同じ時間、事件当時同じ年齢、同じ犯人、同じ被害を被ったとします。でもAさんとBさんは「感じ方」が違うから、その事件に関しての傷、この一部分だけだとしても100%は分かり合えません。だから人の気持ちは「わからない」んです。

「わかるよ」って言葉、本当に人の気持ちに寄り添おうとしてくれる人は使わないと思います。実際、私が休職になったときや本当にしんどい時、私の大事な人は、「わかるよ」って言いませんでした。

もっと言うと、本当に寄り添おうとしてくれてる人って、「分かってあげられなくて、しんどい」っていう苦しみ方を「一緒に」してくれる人だと思います。

家族を通して

この「わかるよ」って言葉、ダウン症の兄については言われたことはない。でも、家族については言われたことがあって。

母との関係が悪くなった時期がありました。当時私は社会人2年目。自分がアダルトチルドレンだと気が付いてる。

そのとき高校の友達に話したんですが、「わかるよ」って言った上に「でもそういう問題、高校生の時の話だよ」って言われたんですね。この友達、実は少額ですが貸したお金が返って来なかったので縁きりました(笑)ってまあ、そんなことは置いといて。

まあ、その言葉は傷つきましたね。高校2年生って、私は父が亡くなった年なんですよ。そのとき母は父の看病やお葬式の事、自分の仕事、家事で手一杯で、ダウン症の兄は排泄自立してたのに、ストレスからか、私が家帰ってきたら排便失敗してたり、家はてんてこまいだった。まあ、元からうちは機能不全家族だったしね。父の闘病は高校1年生のときからかな?私の記憶が曖昧なように、当時の話をすると、母は兄が排泄自立ではなくなっていたことを知らなかった。

私からしたら、その友達は高校時代たしかに母親との関係で悩んでいたけど、まあ、よくいる口うるさいわがままな母親って感じで、高校生の時に悩めたのは羨ましいよって話。私は母との関係に目を向ける余裕がなかったからね。

だから、「わかるよ」って言葉私はとても嫌いです。

だから看取りで、ご家族が泣いてらっしゃる時、看護師も泣いたら「わかるよ」って言葉と同義な気がしちゃって、「絶対に泣いてはいけない、この人たちの苦しみに、私の悲しみは値しない」と思ってしまうんです。

人の気持ちは、100%は絶対わかってあげられない。自分の気持ちは自分にしかわからない。だからこそ、自分の気持ちは、とてもとても大事にしなきゃいけないんですけどね。

兄に関しては、「私の」弱者への対応にかなり影響を与えてますね。

例えば、意識がない患者さんを検査のために移動するとき声掛けしない看護師、嫌いです。あとは、一生懸命頑張ってない障がい者も嫌いです(学生の時にボランティアをした時にいた、それ自分で出来るよね?ってことを頼んでくる人)。たぶん結構厳しい見方をしてるんじゃないかな。

まあ、小学生の時、兄と母と3人でスーパーに行ったりしたときに、そこら辺の小学生が、兄について「変なのがいる」的な言葉と視線とを送ったからでしょう。

障がい者の家族ってのは「見られ方」に敏感になるのかしら。

人には人の見方があるんですけどね...「見られ方」に敏感になっても、相手の「見方」も尊重してあげられる人でありたい。

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