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自覚革命

自分のことはあまり知らない

自分のことは自分が一番よくわかっていない。よく聞く言葉だけれども、その言葉自体あまりよく分かっていなかった。自分が思う性格と他人から見た性格がちがうとか、認識の偏りとか、そういうことを指すんだろうとは思っていたけれども、その定義は文脈によって違うよなあとか思っていた。
今回は、その言葉の意味がよく理解できた話。

少しの無理

僕は会社に勤めている一般的なサラリーマンで、その在り方の好例として少しのメンタルの薬を処方されており、そこから容易に予想できるとおり仕事に行くのが辛い。(色々なご意見があることは承知の上で、こんな表現をしている)
それでもなんとか周りの人と同じように生きたいと思って、少しの無理をして生きている。
補足すると、この周りの人というのが自身が創り出した意味もなく存在もしない偶像で、自己中心的で差別的な考え方であるというのは理解している。ただ、理解しているからといってその考え方を捨てろというのはまた別の話で、例えば明日から裸で外を歩いてもいいんだよ、と言われているようなものだということをご理解いただきたい。
必須の補足だったので話の脱線を余儀なくされたが、理由のない自己理想のために少しの無理をしながら生きていることを伝えたかった。

平常と異変

そんな日々が何年か続いて、どうにか平均台みたいな生き方をしていたある日、いつもと同じ時間に起きて支度をし、いつもと同じ時間にホームに着き朝の分の薬を飲み、いつもと同じ時間の電車に乗った。
なにもなかったはずだった。乗り換え駅に着いて次の電車の乗り場に移動する途中、地面が柔らかくなった。ちょうど点字ブロックの"止まれ"のあたりを踏んだ時だったので、「いや危ない点字ブロックやな」と思った。
でもそれは点字ブロックのせいでもなんでもなくて、私の身体の問題だった。

浮動性めまいというものがある。対は回転性めまい。前者はふわふわと雲の上を歩くようなめまいで、後者はぐるぐると視界が回るめまい。一般的に前者は自律神経系の症状で後者はメニエール病など耳の器質系疾患とされている。
私のそれはまさに浮動性のめまいで、私の身体と照らし合わせても合点のいく症状だった。
症状の話はさておき、私は確かに柔らかい点字ブロックを踏み、足元から身体のバランスが崩れていく奇妙な感覚のなかで、そのまま地下に沈んでいきそうな感覚を初めて経験した。
単なるめまいだと意識できるまでは数秒で、周りから見れば一瞬うずくまった単なる体調不良の人にうつったとおもう。
だからか、声はかけられなかった。
少しだけそのままの体制で状況を整理して、立てるかをゆっくり確かめて両の足で再び混沌としたホームに立って、次の電車を待った。
私は30分ほど早く会社に着くように家を出ているので、遅刻にはならない。
ただ大事な打ち合わせがあるから出社が必要だと自分は自分に何か言っていたのを覚えている。
そのまま何事もなく出社したが、少し出社が遅れた理由を説明したあと上司の一声で帰された。顔色が悪すぎる、らしい。

とりあえず病院を予約した。かかりつけの心療内科ではない、脳神経外科を。この際、母親が亡くなった理由が私にも可能性があるのか、検査しておきなかったのだ。
予約は19時からしかとれなかったので、いったん帰宅することにした。
数分会社に出社して、そのまま帰宅する。時刻は始業時間の9時を少しすぎたところだ。
通勤とは逆方向の、この時間帯が最もガラガラな電車に座って考えた。

今まで薬を飲んで、妻の助けも借りて、なんとか仕事をしてきた。
出社前に嘔吐したこともある。めまいによる通勤断念もこれで初めてではない。
多少無理はしているけれど、薬に頼ってはいるけれど、なんとかギリギリで大丈夫な状態で仕事ができていると思っていた。
でも、それは間違いで、私の心は既に折れていた。

そのことに気づくまでの時間は途方もない。
いつからそうかは分からない、でもその日、私は私の心が既に折れているのだということを自覚した。それは幼い頃、蟻が行列を作る先が食べ物だったり巣だったりすることを発見したような感覚だ。周りから見ればとっくに折れていたかもしれないが、私はそんな意識はなく、ギリギリを保ちながら折れないようにバランスをとりながら一日一日を渡っていたつもりだった。
それが既に折れていたなんて、知らなかった。
楽になったというよりは納得がいったという方が正しい。

折れた心は戻らない。可塑性はない。

妙に清々しかった。
苦しさの正体は苦しんでいる自分だった。

私は、あの柔らかな点字ブロックを踏んだ瞬間、折れていた心を見つけた。

自分=心+身体 

その後はとりたてて特別なことはない。
一応MRIの検査を行ったが異常はなかったし、めまいは自律神経起因のものだろうとのこと。
別にそれはどうでもいい。分かっていたので。

以前より頓服の量が増えて、折れた自分が存在することを知った。
今の自分は折れた後の自分で、ちぐはぐに頑張っていることを知った。
そして私の心はとっくに折れていたことを知った。
しんどいとは思っていたしもうあかんかもと思ったことはあったが、仕事に行って帰ってくることはできた。
それができない場合もあることを初めて知った。

あぁ、私ってもう心折れてたんだなぁ、と自覚をしてはじめて、私はようやく数十年を共にした自分が少し分かった。

これが、今回の私の私の中の革命です。

自分の考え方や性格は知らない。
でもさらに、今自分がどんな状態にあるかは知らない。
その状態において自分がどんな姿勢で望んでいるかは知らない。
多分他人が教えられることはない。
自分が気づくしかない。けれどそれはきっかけがないと難しい。
頭で理解していていも意味がない。
ああこういうことかと、脳に体験を埋め込まないと真に納得はできない。

人は身体と心でできている。それらは密接に関わり合っていて、どちらが良ければいいというわけでもなく、どちらが悪くなっても結局どちらも悪くなるし、どちらかのことが分かっていてもどちらのこともわかっていない。

誰の何の一助にもならない体験の話。


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