「なんで植物は食べるのに動物はダメなの?」に対する私なりのひとつの答え
動物倫理、環境への影響、健康問題、飢餓問題など、食の選択がさまざまなことに関わっているということを知り始めてから、1年半くらいになる。
ここ最近は、完全ヴィーガンとまではいかないけれど、お肉や卵、お魚を食べることは随分減った(ベジタリアンになるのかな?)。卵や乳製品を使わなくても美味しいものはいくらでも作れるということを知ってからは、大好きなお菓子やパン作りでも、ヴィーガンレシピを探して作るのが当たり前になった。
そんな中、
「なんで野菜は食べるのに肉や卵、魚は食べたらダメなの?」
「どっちも同じ命でしょ?」
という問いに、自分なりの納得した答えを持てずにいた。
「動物がかわいそうだから」
「環境負荷が大きいから」
「自分自身の健康のため」
確かにそのような理由もあるけれど、もっと違う別の何か、本質的な何かがあると感じていた。
そして最近ようやく、納得できる答えが降りてきた!
結論から言うと、その答えは、
「その食べものが、本来のいのちの姿で生きたのかどうか」。
一般的にスーパーで売られているお肉は、家畜として人間が食べるモノとして、生産される。本来であれば、自然の中で生き生きと生きるはずの動物たちが、成長を早めさせるために飼料を必要以上に与えられて太らされたり、ホルモン剤が投与されるなど、不自然な環境で育てられる。人間の欲望のために育てられ、屠殺され、一生を終える。こういう過程をたどった動物たちのお肉は、わたしは自ら進んで食べたいとは思えない。
でも、自分でもびっくりしたのだけれど、はじめて狩猟に連れて行ってもらって、解体もお手伝いさせてもらっていただいたときの鹿のお肉。複雑な氣持ちではあったけれど、意外にもすんなり、ありがたくいただくことができた。それはきっと、生き生きと生きた鹿さんの、エネルギー溢れる肉だったから、心の奥深くからのありがとうという氣持ちとともに、いただくことができたのだと思う。
それから、野菜。野菜は野菜でも、無農薬・無化学肥料、自然栽培のものをなるべく食べたいとわたしは思うのだけれど、これも同じ理由。「本来、植物が在るべき姿で栽培されているかどうか」、「その植物が本来のいのちの姿で生きたかどうか」を無意識的に考えているからかもしれない。
(魚については、漁業の現場を実際に見たことがないのもあってか、あまり想像ができず、出されたら普通に食べてしまう。海で生き生きと生きていそう、と思っているからかも。現実を、いつかこの目で確認してみたい。)
わたしは、人間も植物も動物も、優劣をつけることはできず、どれもが尊いいのちだと思っている。
だから、それらのいのちが本来のいのちの姿で生きられずに一生を終えていくことに、心が痛くなり、すすんで食べようとは思えないのだとわかった。
わたしにとって、「何を食べるか」は、
「自分がどう生きていたいか」ということに大きく関わっている。
「本来の姿で、自然に、生き生きと生きていたい。」
そう思うから、だから、自分以外の他の人も、植物も、動物も、生きとし生けるものすべてが本来のいのちの姿で生きてほしいと願い、それが「何を食べるか」の選択にも影響している。
データや根拠、理論だけでは語れない、自分の心の奥深くにあった想いにようやく氣づけたので、この場をお借りしてシェアさせていただきました!最後まで読んでくださりありがとうございました〜!
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