見出し画像

セカイ系主人公としての「エホバの証人」


 さあて、エヴァンゲリオンが完結した。

 こんな言葉からスタートするのにはもちろん意味があって、1995年から人類と若者(ほぼ)すべてが悩まされた「セカイ系」がひとつの終焉を迎えたからである。

 セカイ系とは、漫画やアニメ、ライトノベルなどでざっくりと抽象的に捉えられる概念であるが、簡単に言えば

「ちっぽけな僕たち私たちの自意識が、セカイの成りたちと終わりにつながっている」

というお話である。

 もっとも、そこは思春期の少年少女がハマる物語であるから、たいていの場合はそのセカイ観には「ボーイミーツガール」が当てられる。

 つまり、「僕とあの娘」が出会い、その2人の個人的な関係が、セカイの成りたちと終わりに関係しているという筋書きである。

 これは「新世紀エヴァンゲリオン」において可視化され、その後もたくさんの同類型ジャンルを生んだことは、すでにみなさんもご承知のことであろう。

 中でも最新版は、新海誠の「天気の子」あたりだろうか。世界中を巻き込む天候=雨は、一人の少女と関係していて、「僕」はそれでも彼女を選ぶ、という物語である。


 さて、エヴァであるが、セカイのはじまりと終わりは、「シンジくん」という「自意識過剰ボクチン」とそれを取り巻く3人の少女によって「生み出されもし、滅ぼされも」した。

 今回の最終回はもとより、セカイの終わりと再生は、TV版でも、旧劇場版でも描かれた。

 しかしまあ、いろいろあったけれど、最終結論は、

「人々は支え合って日々の暮らしを営み、子孫が増えてゆく」

という他愛もない、”村”の世界観に帰着したわけだ。

 ハルマゲドンやセカイの滅びはやってこず、平々凡々な日常こそ素晴らしい、という落ち着くべきところへ落ち着いたとも言える。


========


 ハルマゲドンは来ないんだ。そして、セカイの再生もない。というのがエヴァの結論だとすれば、エホバの証人と呼ばれる宗教の人たちは、

それでも「セカイの滅びと再生が、僕たち私たちとつながっている」

と考えている派ということになる。


 さすがに、それなりのいい年をした大人が、「ボーイミーツガール」にうつつを抜かしているわけではないだろうが、彼らはセカイ系の世界をまさに生きている。

 彼らの教義で言えば、14万4千人という人数が、神に選ばれた特別な人たちであり、セカイの滅びののち、天に引き上げられる。そして、その他であっても、セカイの滅びを乗り越え、また死から復活するのである。


 通常のキリスト教との違いは、セカイとのつながり方だ。キリスト教の主体は当然ながらキリストだから、イエス・キリストが一方的に人々を救い上げるものである。

 イエスは三位一体で神そのものとも解釈されるので、ざっくり言えば神が一方的に人々を救うだけの話である。その時、神に従う気持ちが強いものもいるし、弱い者もいるだろう。過ちを犯してしまう人だって紛れていることになるが、神は愛なので、ざっくり言えばそれでも許してくれる、というしくみである。


 ところが、エホバの証人は、「ちっぽけな僕たち私たち」の意識は、セカイと繋がっているので、「あたしたちは、あたしたちこそは、あたしたちだけが救われるのだ」という主張になる。

「あたしたちが救われるのであって、あなたたちではない」

「あたしたちの仲間になれば、あなたたちも救われてもまあ、いいだろう」

という考え方である。

 本来なら、救うかどうかを決めるのはキリストもしくは神であり、誰をチョイスするかはセカイ=神の側に選択権があるはずなのだが、エホバの証人は

「あたしたちは救われるのだ、救われるったら救われる、確実なのだ」

と信じて疑わない。

 そのあたりが「セカイ系の主人公」たる所以である。


 面白いことに(失礼)、神からみて、「あなたやわたしは、ただのモブキャラ(その他大勢)であった」ということだってあるわけで、その選択権はやっぱり神にあると思うのだが、そこは譲らない。

「あたしたちがモブキャラであろうはずがない」

という考え方は、とてもシンプルな理由で説明できる。

「なぜなら、エホバの証人はセカイ系の主人公だからである」

ということだ。かっこわらい。


 さて、セカイ系という夢が成立していた間は、それでもよかったかもしれない。旧エヴァでは、シンジとアスカのみが生き残るという描写もあった。限られたあたしたちだけがセカイの滅びから生き残り、それが唯一の人類の希望になるという「も・の・が・た・り」は当然フィクションとしてはあってもいいだろう。

 ところが、「天気の子」では、セカイのありようから主人公たちは「降りて」しまった。セカイがどうなろうと知ったこっちゃない、あたしたち二人はこのセカイの下で幸せに暮らしましたとさ、というオチであった。

 「シン・エヴァ」もしかりで、セカイのありようよりも、平凡たる村の暮らしのほうが、真理真実である、ということになったわけだ。

 「オウム真理教」の場合はもっと悲惨だった。ハルマゲドンとセカイの再生を夢見たものの、すべては誤りと妄想であり、国家を揺るがす大犯罪者として、処刑された。


 セカイ系は、「夢」だ。だから現実に引き戻されると、選択肢は限られる。

■ 平々凡々たるいつもの暮らしに戻るだけ

■ 普通の、当たり前の、当然たるセカイから除外されて、それでも何かを信じて生きてゆくだけ

■ 夢物語の中を夢想しながらさまようだけ

・・・この3つくらいしかないのだが、最後のほうはもはや廃人だ。アヘンに侵されたようなものである。アヘンの夢の中では幸せかもしれないが、現実世界では廃人なのだから。


 2021年。エヴァが完結したことは、ひとつの救いであり、きっかけにはなるだろう。セカイ系の代表作が、セカイを否定したのだから。

 セカイの再生はなく、「当たり前の日常が続くのだ」ということを示したのは、英断であったと思う。


 まさに、今こそすべてのエホバの証人に言うべきことばがあるということだ。


「めざめよ!」


と。


 そして、そこに付け加える言葉があるとすれば、それでも僕たちわたしたちは、あなたたちを除外したりはしない、ということだ。

 夢の時間は終わったのだから、さあ、一緒に手をつないで帰ろう、ということだ。

 幸せになるべきなのは、あの世でではない。このセカイでにおいてである。


 さよなら、すべてのエホバの証人。


(おしまい)








  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?