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【神になるための入門講座09】 神がダメなら、権力者になりたい!


 神になりたい!という願いを突き詰めてゆくと、それが難しいというよりは、「強いもの、なんでも思いが叶うもの」というよりは、人間ならざる悪魔のような存在になってゆくのではないか?という疑念が出てきたことと思います。

 そこで、いったん小休止して、「神ではなく、権力者とか王になるのはどうか」と考え直すのはいかがでしょう。

 神になればなんでも思い通りにできそう、ということがうまくいかないので、「王になりたい!」と路線変更してみる案です。


 そもそも、古代において権力と宗教は密接に結びついており、日本では卑弥呼が「鬼道」つまり「呪術」のようなものを使っていたとも言われます。

 現在でも皇室のいちばんの仕事は祭礼を執り行うことですから、「神の力と王権」は近いものだったことがわかります。

 その意味では「神にはなれないけれど、王になりたい!」という考え方はあながち外してはいないのかもしれません。


 王、もしくは権力者になる!そして周囲を思うがままにする!ということは魅力的です。もしそうなれば「ウハウハ」で過ごせること間違いないからです。

 では、王や権力者になるには、どんな方法があるのでしょうか?


 実は王や権力者になるのは「神になる」ことよりも難しいかもしれません。なぜなら、「神になる」のは、

”超自然の力を用い、通常ではない手段で霊的な存在になる”

ということですから、人間のワザを飛び越えた所で「成る」ものです。

 神はそもそも、人知を越えた存在ですから「神になる」ということは、人間のワザではない、特別な状況によってそうなることを意味します。


 ところが「王や権力者」というのは、あくまでも人間界の範疇ですから、人間界のワザを使って成るしかありません。つまり、人間同士の権力闘争によって、勝ち上がる以外にないのです。

 たまーに、歴史上の伝説などで「神によって認められたから、その人物は王になれた」みたいな話が残っていることがありますが、まあ、そのすべてが

「後付けの言い訳」

みたいなものでしょう。

 中国の皇帝には「天命」という考え方があり、互いに武将はしのぎを削って戦うわけですが

「俺は天がそうさせたので皇帝になれた」

「天は俺を見放したので皇帝の座を引きずり下ろされた」

というふうに納得します。


 神話めいた物語では、こうした結果を「天の意志・神の意志」と捉えるでしょうが、実態は「結果論」であると考えるのが妥当です。

 だとすれば、今まで歴史上の人物で「王や権力者」になれた人たちは

■ まず、自分に実力があった

■ そして、時運が味方をした

ということで、その座についたのだと考えられます。


 ということは、あなたがアーサー王になりたいと思っても、ヤマトタケルになりたいと考えても、あるいは総理大臣になりたいと願っても、

「実力と時運に恵まれること」

がなければ、王にも権力者にもなれないことが判明しました。


 以前にもたとえ話で出てきましたが、「時運に恵まれる」のであれば「宝くじが当たる」でもいいわけで、この話は二回めですが、宝くじが当たるのであれば、王になる必要すらありませんよね。


 僕たち私たちは、ふだんの生活において、ド貧民のどんづまりの庶民ですから、だからこそ「一発逆転」を超自然の力に頼って「神になりたい」と願うのですが、ド貧民のブサイクにおいては、どう考えても実力と時運が味方をしてくれるとは思いません。

 どうせ味方をしてくれるのなら、権力者になる前に

「この顔を美男美女にしてください!」

と願うほうが、まだ現実的です。

「このドンづまりの生活から抜け出すために、電通に就職させてください!」

でもいいでしょう。なんでも電通に在籍しながら、女性たちに4股をかけたおっさんがニュースになっているとか。うふふ。


 さて、それでも「王や権力者になりたい!」というのは、ロマンですよね。わかりますわかります。

 古代においては、天皇が野原に遊びに出かけて、美しい女性と出会う、なんて物語がありますが、そこで天皇は尋ねます。

「名はなんという?」

けれど、その麗しい女性は、名前を答えることはしません。

 なんでかわかりますか?

 名前を答えるということは、天皇の求愛を受け入れるということでもあり、奴隷状態になるということです。

 あいては天皇ですから、宮廷に帰ってから「なんとかという女を連れてこい」と命令すれば、あとは妻にすることだって、殺してしまうことだってできます。

 ところが、名前がわからなければ、連れてくることもできず、命令も支配もできません。

 ですから、「名前」というのはもっとも基本的な「呪術」であるとされています。

 「本当の名前は、教えない」というのが、古代日本のマナーだったのです。

 このことは、現代の日本でも受け継がれています。令和天皇という言い方をしないのは、天皇の呼称は「追号」であり、天皇を辞めてからの名である、という考え方です。

○ 「徳仁さま」という本当の名前

○ 「浩宮さま」という称号

○ そして、のちに「令和天皇」と呼ばれる「おくりな」

の3つの名前があるのは、もともとは本当の名前を隠すためです。


 明治ごろまでは、武士以上の身分であれば「いみな」という本名があり、ふだんは「通称」を使っていました。

 いみなは本名ですから、知られてはいけません。ですので武士はふだんは通称で呼びあっていたので「信長」「秀吉」「家康」なんて呼び方は誰もしていなかったのです。


 さて、話がどんどん外れてゆきましたが、古代の天皇のように、権力者は「名前を支配すること」だけで、相手を思うがままにする力がありました。

 ところが、それができたのは近代以前の社会までで、現代においては「権力者」は、残念なことにすべてが思うままにできるわけではありません。


 第一、「権力者の娘であるはずの某女性のなんとか子さま」ですら、小室か安室か氷室かわかりませんが、一緒になることが難しそうです。

 桜をみる会を催しただけで、あっちこっちからツッコまれて権力者を辞めた人もいます。

 枕営業があったのか、なかったのか、後からいろいろ言われることもあります。

 買収して自分に票を入れさせたことがバレて、失脚した人もいましたね。そうそう、賭け麻雀をバラされた偉い人もいました。


 つまり、現代における権力者は、「いったんは偉くなるけれど、どこかで足を引っ張られる」ことが多いのです。いつでも「あいつの足をひっぱってやろう」と思う敵に囲まれていますし、そこらへんの庶民が告発してくることもあります。

 どこかの国の女王の孫たちがややこしいことになっていて、女王も安らかに眠れないでしょう。


 そんな「しばりのある権力者」になるのは、嬉しいことなのでしょうか?権力者には権力者なりの悩みがあるとすれば、それは羨ましい存在なのでしょうか?


 やっぱり、どうせなるなら、それらをすべて乗り越えた「神」になるほうがいいなあ、と思いなおす人も多いことでしょう。



(つづく)




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