拝啓 2年後の碇シンジくんへ
”拝啓 碇シンジくん
もうあれから2年もたったんだね。どうしてる?元気?仕事は順調ですか?マリちゃんとはうまくいってる?
…って、あんまり根堀葉掘り聞くのもアレなので、近々どこかで会えたら嬉しいです。
いや〜、テレビで知った時は驚いたけど、っていうか映画でも見たわ。なんていうか、私には立ち入れないほど、めっちゃ大変なことがあったのは、本当にお疲れ様でした。それくらいしか言えないけど。
仕事の都合でそっちいくこと増えそうなので、時間合わせて車エビでも食べに行きましょう!なんか名産品らしいやん(笑) ではでは。 敬具”
……2021年3月に公開されたシン・エヴァンゲリオン劇場版から、もう2年も経った。早いものである。ちょうどいま、シンエヴァがブルーレイなどのディスクになって発売されている最中なので、再びあの頃のことを思い出している人も大いに違いない。
あの頃、そうまさに”あの頃”というしかなく、それは25年も続いた出来事なので、中には人生の大きな一部分として「エヴァンゲリオン」とともに歩んだ人もいたことだろう。
その完結編となった劇場版の最後で、シンジくんはどうやら山口宇部の町で、会社員としてどこかに勤めているらしいことと、マリちゃんとよろしくやっていることらしいことだけが伝わった。
あれから2年も経ったのだから、新米社員だったとしても仕事にも慣れ、あるいはマリちゃんとも、ときには喧嘩したり泣いたり笑ったり、あれ?もうすぐ結婚するんだっけ?なんてこともあるかもしれない。
シンジくんは、日常へ還っていった。庵野秀明の答えは、
「全てのアダルトチルドレンは、”さよならすべてのトラウマたち”と宣言して、平々凡々たる日常へ還れ」
ということだったのかもしれない。
おそらく大半の人にとって「過去のもの」となってしまったエヴァンゲリオンだが、そんなことを思い出したのは、
2020年に↑のような記事を書いていたのを、たまたま読み返したからだ。
話の内容は、「トラウマ」についてのもので、鬼滅の刃とエヴァンゲリオンを比較しながら、その中で「トラウマにどう向かってゆくのか」ということを分析したものであった。
いくら創作された物語とはいえ、鬼滅にしてもエヴァにしても、主人公の少年少女たちにとっては
「とてつもないレベルの、心身破壊クラスのトラウマ的外傷」
が襲ってきて、人生がそれに飲み込まれた話である。
その物語を外部から見るものは、大なり小なり、時分の身に降り掛かったなんらかの悲劇と比較したり、あるいは自分のトラウマと共感・共有しながら
「逃げちゃだめだ」
とつぶやいたり
「俺は長男だから」
と言ってみたり、
「生殺与奪の権は渡さない」
と覚悟したり、したわけだ。
しかし、本論の目的はそこではない。トラウマとそれに対峙する方法については、先の論であらかた言ってしまっているので、問題はそこからなのだ。
2年後、シンジくんはどうしているのか。
そこにあらためて着目してみたい。
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劇場版の最終場面で、シンジくんはチョーカーを外す。それは文字通り、あるいは象徴的な意味でもおなじ「くびき」であって、縛り付けられるものを意味する。
くびきから自由になり、基本的にはシンジくんは過去から開放されたはず、なのである。
ところがだ。
現実問題、こちらの世界を振り返ってみると、なんらかのトラウマ・心的外傷・被虐を受けたものは、なかなかその「くびき」からは解放されない。
シンジくんは、外からみたら何気ない「ふつうの会社員」として生活しているし、その生活にはそれほど大きな問題はないかもしれないが、実は悪夢にうなされたり、トラウマを思い出しては体調不良になったり、山口宇部の会社で鬱になったり、心療内科に通ったりしているのではないか?
……ということなんだよ。
あるいはマリちゃんは、基本的には傍観者的立場もあって、彼女自身がトラウマをものすごく抱えているわけではないにしろ、「いろいろあった」人間であることはたしかなので、果たして過去メンタルを抱えたシンジとうまくやれているのだろうか。
時おり、過去メンタルを悪化させてビーストモードになるシンジを、うまく癒せているのだろうか。いっしょになって闇落ちしていないだろうか。
……ということなのだ。
いま巷で問題になっている「宗教2世問題」についても同じなのだが、平々凡々たる日常生活に溶け込んでも、それでも過去メンタルが襲ってくるのが人の常。シンエヴァでは、ハッピーエンドの部分でスパッと切られてエンドロールへ入っていったが、
「我々の日常は、そこからが本物の人生なのだ」
とも言える。
だとすれば、2年後にシンジくんがどうなっているのかは、重大な関心事である。
もちろん、あのシンジは再構成された「別のシンジ」なので、それほどトラウマを持ち越していない、持ち帰っていないという考え方もできるだろう。
それはそれで酷だ。その理屈だと現在トラウマを抱えている人間は、いっぺん死なないと解決しないのだから。「同じ人間のまま、新しい日常へ移行しても、引きずるのだ」と言われているのと同じで、救いがないじゃないか。
あるいはあのシンジが以前と同じシンジだとしても、どうすればトラウマをすっきり解消できるのか、ぜひ教えてほしいものだ。
親父を完膚なきまでに消滅させればいいのか?
親父の苦悩を息子も理解してやればいいのか?
死んだ母、あるいはいなくなった母の愛情を思い出せばいいのか?
その全てが答えのようで、答えではない。
かりに性的被虐に襲われた女性がいたとして、加害者を殺せばいいのか?ましてや加害者の苦悩を理解してやれ、なんてことを言い出せばセカンドレイプそのものではないか。
誰か理解ある彼くんに愛されれば、過去は消えるのか?
と、まあ、
シンジくんに起きた出来事と、それぞれに起きた出来事を比較すればするほど袋小路に入り込んでゆくことに気づく。
だとすれば真実はこうかもしれない。
「碇シンジは鬱を発症して、マリとも別れてしまった」
……うええ、救いがない。だったら、エヴァが完結しようが、しようまいが、何も変わらねえじゃねえか。人生は鬱々と過ぎてゆくばかりなり。
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もちろん、私だって「シンジとマリはしあわせに暮らしましたとさ」という未来を想像したい。あれほどの大事件、大災害、大トラウマがあっても、そりゃあ時折思い出したりするかもしれないけれど、共感できる、一緒に戦った仲間であるマリちゃんとなんとか手を携えて、アスカやレイの菩提を弔いながら、一生懸命もがきながらでも幸せになってほしい。
しかし、それを信じるためにも、シンジのその後を、一度しっかりとイメージしてみたかったのだ。
はてさて、鬼滅の刃ではどうだったか。これは明確に答えが出ている。ラストシーンは「その後の子孫が、なごやかに学園生活を送る様子」であった。
子孫は記憶を持たない。先祖である炭治郎たちは、鬼舞辻󠄀無惨を倒し、トラウマの根っこを断ち切った。
そして、本人たちではなく、子孫の世代であることで、トラウマと被虐の世代間連鎖を断ち切ることにも成功したのだ。
だから炭治郎の子孫たちは、最初からトラウマを「知らない」のである。
これは、当たり前であるが、めちゃくちゃ救いがある話でもある。
「世代間連鎖を断ち切れば、そこから先は自由が待っている」
ということだからだ。
虐待や宗教問題については、これはひとつの解決策だ。世代間連鎖を断ち切れ!俺は長男だからやれる!
さて、再構成される、あるいは世代が変わる。それは「別の人間になる」ことを意味する。
別の人間になれば、トラウマは連鎖しない。これは一つの救いでもあり、呪いでもある。
「おなじ人間として生きゆく我々は、それを抱えて生きてゆく」
ということを、まざまざと証明されたことになるからである。
だから、何度でも問いかけるのだ。
シンジくん、あなたは今、どうしていますか?
あなたは今、幸せですか?
と。
(おしまい)
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