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行きたいとこならたくさんあるが


木枯らしと土埃のとち東村山の桑畑は「郊外」という現代社会システムからの要請によりあっけないマンション群と成り果て、モーレツ社員な一元論によって育てられた私の父は、そこでの子育てを選択する。

父たちはすべからく6時に起きては、髭剃って出勤電車、揺られ1時間。

8時半にもなれば。そびえる集合住宅、キーンと張り詰めた静寂の中、一限に間に合うことを諦めた小学生がゆっくり歩く風景の奇妙さたるや、その足音を跳ね返すコンクリートの硬さたるや。

働く大人がいない町、変なおじさんがいない町、不思議な魔女がいない町、みんなのお祭りがない町、なんとなく中流な核家族だけの町、排除の意識で塗り固められた町。

あの町でリアルな生命の高揚、他者との交感、地の奥底から湧き起こり皆を包み込むようななにかを感じたことがあっただろうか。それに呼応するように全身の血がたぎり、溢れたものを満たしあえる場があったか。

味気ない少年時代だったと言えなくもない。

「目の前のやつと生きることが私を生かすこと」に当然つながっていた人間の生き方、その循環を維持するための価値判断と様々な祝祭、計り知れない他者たち(天候、自然、いけ好かんやつ、親戚、家族)との折り合いの上でこそ躍動してきた命と歴史、そんな緩やかな時間の蓄積から突然放り投げられた、いびつな私たち。

キョロつきの集団ヒステリーによって、生きることを要素で区切り、分解してしまったなうな社会は、その選択を肯定するためのまやかしとハリボテで
何がなんだかわかんなくなってしまっている。

生態としての明らかな危機信号を無視し、厚塗りの化粧で外っつらだけをよくみせようとする。何かを批判することで一時的な精神安定を図ろうとする。
そういう世界で生きてきた。


新型コロナはこれからの人間の生き方をどう変えるんだろう
おれはどのように変わっていくんだろう

この圧倒的な他者は、強くしなやかに、良し悪しを超越しながらあらゆるシステムをぶち壊してゆく。壊れてしまったあと、おれはどんな風にどんなスケールでどんなものたちと繋がり直していくんだろう。


行きたいとこならたくさんあるが、

好奇心を土台にした個の繋がりを、隔たりを愛する体力を、視点に触れる感動を、あそびと地続きにある公共を、

友人たちとやりたかったそういうことを、生きることを、くうねるあそぶを自分に引きつけ、走りながら作っていく

そういうチャンスなのかもしれない、


ポジティブに with コロナ していこうと思いはじめてきている


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🏄‍♂️ 芸術探検家 / 移動行為から芸術の起こりをさぐる 🚲
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