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焦土と浄土

◆「現実というものは、それぞれの人の心の状態と外の現実が混ざり合った「中間的」な対象のようなものであり、おたがいの会話をつうじて共通の認識ができるような、ほんらいはとても柔らかいものではないか」(中沢新一『神の発明』)

◆だから人は、把握できない「現実」を、他の人にも同じように見えていることで確信したくてコミュニケーションを求めるのか。自分一人では「これが現実」と断言できぬままに、共に現実を見てくれる「仲間」を求めて…。それが得られねば残るのは疎外感だけではなく、自分が「現実」に受け入れてもらえないという孤独が残るのみ。だとすれば、人は本当は人が大事なのではなく、他人を通して得られる「世界と自分が確実に繋がっている感覚」だけが欲しいのか。

◆虚しい話だ。だとすれば政治家に世相は一向に読めず、侵攻する人間には市井の塗炭の苦しみは想像できない。親や教育者には子どもの世界は理解ができず、他国の苦しみはどこまでも対岸の火事だ。そこで終わってよいのなら、人類よ。もう世界をつなぐのはやめたらどうか。みんな目の前の畑だけ耕して他を見なければ戦争は止まる。コロナが止まぬのも経済とやらを回さなければならないからだろう。遠くを追っている間にすぐ近くの大事なものはどんどん見えなくなる。

◆人間のこの余計な抽象化機能を古代の人はだから宗教に逃がしたのではないだろうか。個人の中では全く罪のない素朴な宗教を胸に抱き、必要最低限の共通現実の中で生きていく…愚かかもしれないが、それが最も幸せな形態であるのかもしれない。

◆西洋の根底にあるキリスト教だって、原初はそうやって各自が胸に収めて一人想うものであったろう。それがいつの間にやら各自が独立した「個人」とやらに目覚めねばならなくなり、個人の尊厳や選択の自由が国家に新たなアイデンティティを含ませてしまった。そんな考え方の限界はもう誰の眼にもはっきりと見えているはずだが…。

◆龍樹のアベ―クシャ―という言葉を「相待」と訳したのは確か三枝充悳さんだと思うが、お互いがお互いを「待ち」、一緒に一つのものを作っていく過程で各々の「自分」を見つけていく、そんな縁起が人の世界にあることも分からんのかと思う。悟りも迷いも幸も不幸も一如ではないか。どちらかだけで世の中が出来ているという安易な夢からはそろそろ覚めてもよいのではないか。

◆尤もそんな雑感すらも私の脳が描く「抽象」かもしれない。だから今は具体的な何かに没頭する幸せを満喫していようと思う。少なくともウクライナを襲っている縁もゆかりもない一大統領の「現実」とやらが私の領域に土足で入ってくるまでは。実感のない徒な同情よりも今ここにある生活の実感の中で、この事態の平和的収束を祈っていく。

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