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『本、本屋、読者との対面』2021/06/18

 私は必ず紙媒体で本を読む。電子書籍で本を読んだ事は人生で一度もない。本棚に置く本は必ず、自分で本屋に向かい、自分で買う。

 紙媒体を好む理由は沢山有る。まず、本のデザインをじっくりと眺める事が出来る。特に、本の表紙を剥がす瞬間もとても好きだ。つるりと鮮やかなデザインの表紙でも、本の本体の表紙は地味だったりする。それから、綺麗な模様だったり、偶には漫画が書いてあったり..... 。綺麗な洋服を纏った人を、脱がせるような、官能的な魅力が有ると思う。脱線するが、私は本の帯を捨てる事が多い。【〇〇部突破!】とか、【大人気!】とか、【ドラマ化でなんかすごい!】と書いているものはその対象だ。難しい基準では有るが、本の魅力をそっと主張する帯だったり、能動的に本を選びたくなるような.....(と言っても、お勧めされている時点で受動的なのだけれど)、そんな帯が好きだ。そう言う帯は、一度裸にした本にかけ、その上に表紙を着せて保存する。
 話を戻して、紙媒体を選ぶ理由として、直感的な動作で気になるところまで立ち帰る事ができる点がある。伏線を振り返りたい時、状況整理をしたい時、ちょっとした時にここら辺だったよな、と指で手繰る事ができるのは紙媒体の良い点だ。何ページか、は記憶していないがこのくらいの厚みの部分、は意外と覚えていたりする。ページ数さえ覚えていれば、電子書籍の方が便利かもしれないが、本をそこまで数値的な物で見たりはしていないのである。

 本は本屋で買う。本屋に行くのが大好きだ。蔦屋書店、三省堂、文教堂、東京堂書店、街の古本屋.....お出掛けの時は本屋に立ち寄って、何かしら本を買う。本屋にいるとき、私は一番生を実感するのである。 並べられた沢山の本、何冊あるのだろう。何人の人が本を書いているのだろう。...目当ての本が有ったとして、それに辿り着くまでには沢山の目にする本があり、目当ての本の横に並んだ本もある。特に当ても無く、ふらふらと全ての階を歩き回る時は更に多くの本とすれ違うことになる。
 ここに確かに、数多くの人生と、知性と、感性が生きていると思う。手に取らない本であっても、確かにこの世界に生きてきた人が言葉にしたものがある。私の知らない事がこの世界には広がっていて、未知で満たされているのである...と身をもって感じる。知らない事ばかり、と己の無知を知るのである。まだ、私の人生に大きく影響を与えるかもしれない領域が、そこで佇んでいる───。この本屋全ての本に。そう思った時に、得体の知れない焦燥感が這い寄ってきて、私を飲み込んでしまう。人生は短い。私は人生で、この本や全ての本を読む事は出来ないだろうし、全ての本に書かれた知識を身に付ける事は出来ない。それでも尚、本屋の本はそこで静かに待っているのである、触れられる瞬間を。只々、待っているのである。

自己の不勉強さと、浅慮さ、人生の短さに打ちのめされて、本を選ぶ。しかし、ただ、打ちのめされるのではなく崩れ落ちずに本棚を見詰めるのだ。指先で本をなぞり、一冊抜き出しては戻すを繰り返す。直感で一冊選び、買う。読む。そうして知らない事に触れて、ほう...と学びを得る。本一冊につき、一行位の知識が身につくと思う。それで十分なんだ、とも思っている。

そんな私が、明日、本を紹介する。本屋で買ってきた本たち。私の思考を作ったものたちだ。難しい本も、楽しい本も、切ない本も、苦しい本も読んできた。眺める本、読む本、学ぶ本。沢山の本がある。全部大切で思い入れのある本なので、興味を持ってもらえるよう、丁寧に紹介していきたい。本は、人の人生を読み、『長生き』することも出来るし、教科書にもなるし、聖書にもなるし、凶器にもなる。どんな本を選ぼう。私の人生を狂わせた本、救ってくれた本。──一冊手に取ると、『そういえばこの時、こんなことしてたな...』としみじみ思い出す。口の中には本と共に飲んだ珈琲の味がするし、鼓膜の奥ではゆったりとした音楽が鳴っている。そしてどんな五感であっても、必ず本を捲る音と感触がくっ付いてくる。私が本を紙で読むからだ。