高島ゆか

自閉症スペクトラム、ADHD。 パニック障害、たまにうつ病。 持ち家無、貯蓄無、幸か不…

高島ゆか

自閉症スペクトラム、ADHD。 パニック障害、たまにうつ病。 持ち家無、貯蓄無、幸か不幸かといえば、40代までろくなことがなかった人生笑 変わり者と言われ続け、毒親に苦しめられ、社会では意味不明ないじめにあい、 居場所のない人生だった。 それでも元気に生きています。

最近の記事

生きづらかった小学校中学年

小3の時の男性教諭も、小4の時の新卒の女性教諭からも扱いにくい自分に対して、体罰が続いた。やめないおしゃべり、友達への粗暴な態度、因果応報だ。その9、10歳の頃の自分が100%悪いのだから当然だ。 家に帰れば、母親からの叱責。 部屋がゴミだらけのゴミ屋敷の部屋。 専業主婦であるにも関わらず、疲れただの忙しいだのと一切掃除をしない。お陰で体はダニだらけ。アレルギー性鼻炎とアトピー性皮膚炎、側湾症、歯肉炎など親がしっかりフォローしていれば、防げるような病を身も心も抱えていた。

    • 幼少期の自分と毒母親

      両親からの暴力は受け続けたことはない。 毒母親からの言葉の暴力は日常だった。 会話の初めはとにかく、否定から入る。 自分に対してだけでなく、他者に対しても、世の中に対しても、 馬鹿にしたり、貶したり、いつも不満や文句ばかり言うような 毒母親だった。 落ちているもの、目にしたもの、世の中のこと、何に対しても不平不満を 話しかけるという感じだ。ひとりごとも多い。 例えば、開店したばかりの店舗に対して、すぐに潰れるわよ。 テレビで見たり、実際目にした人のことを太ってるわね、とか老け

      • 小学校に上がって

        昭和50年代。小学校に入学をした。 小学生になり、問題行動は加速していく。 相変わらず、お友達とはトラブルばかりだったが、いつも思うのが、 なぜ、そういった行動をしてしまったのか、自分でもわからない。 当然、当時の自分にやめた方がいいよ、ダサっと言ってあげたい。 教員からの指導(叱責)で記憶にあるのはおしゃべり、おせっかいと 言われていた。 当時50代くらいのベテラン女性担任から言われていた。 幼稚園時代の教諭と違って、小学校1、2年の時の50代女性教員。 今思えば、自分のよ

        • 幼稚園時代

          自閉症スペクトラム&ADHDの自分。 昭和40年代など、そんな発達障害なんて診断はもちろんあるわけがなく、 ただの問題児扱い。 幼稚園でも当然問題は起こしまくり、ずっと目の敵にされていた。 幼稚園教諭から立たされたり、叱責されたりだが、なぜ怒られているのか 当時の自分では全く理解ができなかったのだろう。 50年前の幼稚園児の自分はなぜ人に迷惑をかけていたのか。 なぜ相手が怒ったり泣いたりしているのか考えてみた。 ●のべつまくなしに喋り続ける言葉の多動症。 ●お友達に乱暴や暴言

        生きづらかった小学校中学年

          毒母親の夫、父

          弟が生まれた頃、今でいう2年保育の年中から自分は幼稚園に入園した。 入園のための面接も、兄が入園しているから許可がおりたが、 4歳まで自分は一言も口が聞けなかった。 この生育歴がのちに自閉症スペクトラムだと診断された所以だ。 毒母親は弟の出産で入院中であったため、父親が入園式に参加した。 毎日帰宅が深夜の父は、子供の扱いに慣れておらず、激しく泣き叫ぶ自分に対して辛かったようだ。のちに毒母親にこのことをなじられた。 尊敬する父。昭和一桁生まれで、戦争を経験している父は大変我慢強

          毒母親の夫、父

          自分と毒親と

          おしゃべり、おせっかい、親の顔が見たい、この子に近づくとろくな事が ない、など 小さい頃から面と向かって近所の大人によく言われたものだ。 とにかく貶されたことはよく覚えているものだが、自分も人には相当迷惑をかけていたらしい。就園前の記憶にあるのは家を勝手に飛び出し、小学校の校内に入り込んだり、知らないお宅の玄関先に届いているヤクルトや牛乳を勝手に飲んだりしていた。 記憶にあることもあれば、後から親に聞いた事などあるが、今思えば親がそんな行動をやらせないようにするのが普通だろう

          自分と毒親と

          生まれてから

          昭和40年代、東京都生まれ。 年の離れた兄と弟の真ん中。 設計技師の父親と専業主婦の母親である。 両親はのちに度々登場する公団住宅に、結婚と同時に入居した。 この公団住宅は当時は芸能人やテレビ局関係者が多く住んでいた、が自分はあまり記憶にない。 昭和30年代、高度経済成長期で憧れの団地住まいと言われていた。 両親が入居するまで7回抽選に外れ、住まいが決まってから結婚式を挙げたそうだ。 とにかくこの公団住宅に入居したかったらしい。 当時の大卒の給料が12,000円で家賃が10,

          生まれてから

          53歳のこれから

          53歳この先どう生きようか 生まれてから今まで変わり者変わり者と言われ続け、近所でも学校でも親からも嫌われ者だった幼少時代。 そんな53歳のこれまでと今後の生き方を、振り返り真剣に考察しよう。 自分より悲惨な人生の方は世の中たくさんいるであろうが、自分みたいな 天然記念物的人物のこれまでをお伝えします。

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