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海上のサイクリング

 わたしのママチャリは6段変速機付きだ。上り坂だって楽ちんである。
 もっとも、今日は用事に使っているわけではない。気晴らしに、そして日頃の運動不足解消のため、サイクリングを楽しんでいた。
 いま走っているところは、遮る物など何もない、広々とした大海原に敷かれた白い1本道。
「水平線から立ち上る入道雲、エメラルド色をした明るい海。風もなく、波は穏やかで、これこそサイクリング日和」わたしは機嫌良く、ペダルを踏み続けた。
 道はクルマが1台、楽々と通れるほどの幅。自転車同士なら、余裕ですれ違うことができる。
 路面は見た感じがつるんつるんだが、それでいてアスファルトのように、しっかりとタイヤを捉えて離さない。
 たとえ濡れていようともそれは同様だ。実際、波が道をさらい、潮だまりを作っている箇所がいくつもあった。速度を緩めなくても、まったく不安はなかった。

 急がず、遅すぎず、曲で言えばアンダンティーノほどのテンポで走っていると、1時間に1本の割で標識に出会う。
 決まって、こう記してあった。

 〔この先、一本道〕

 分岐もなければ、距離すら書いてない。なぜなら、行けども変化などないから。
「もしも、うとうとして道を踏み外したらどうなるんだろう」そんな考えが浮かぶことがあった。
 道自体に束縛する力があるでなし、そのまま海へポチャンと落ちてしまうだろう。
 陽気は暖かく、こうして走り続けていると暑いくらいだ。水の中に飛び込んだとしても、それはそれで心地よいハプニングだ。
 実際には、いつまで経っても疲れる兆しはなく、ただ、走ることに喜びを感じていた。 

 時折、ウミドリが目の前の道をスイーッと横切っていくことがある。
「いまのはカモメかなぁ、それともウミネコなのかなぁ」ハンドルを握りながら思う。残念ながら、乏しい知識では両者の区別をつけることなどできなかった。
「せめて、鳴きながら飛んでくれたらよかったのに」わたしはつぶやく。「ウミネコというからには、きっとニャア、ニャア鳴くんだろうなぁ。それじゃあ、カモメはいったい、どんな声を出すんだろう」
 聞こえるものといえば、砕ける波、それと自転車の車輪が回る音。のどかで単調な音の繰り返しが、静けさをいっそう強調する。
 海風がやさしくほほをなでた。髪をわしゃわしゃかき乱され、そのたびに、はっきり形を結ばないままの想い出がふっと蘇る。
 それはいつの、どんな出来事だったのか。そばに誰がいて、どんな会話をしたんだっけ。
 けれど、意識を向ければ向けるほど、霞んで遠くなっていく。

 カゴの中でゴロン、ゴロンと行きつ戻りつする、500ミリリットルのスポーツ・ドリンクに気がついた。
「そうだ、喉が渇いたときのために、途中の販売機で買っておいたんだった」
 いまがそのときだ。わたしは久しぶりに自転車を止め、片足をスタンド代わりにした。
 カゴからペット・ボトルを取り出すと、キュッと蓋を開ける。一気に半分ほど飲んだ。体の隅々にまで、冷たい水が染み渡るのがわかる。
 さらに飲み続けようか、どうしようか、ちょっとだけ迷った。
「次はどこで買えるかわからないし、取っとくとしようかな」フタを締め直すと、自転車のカゴにも戻す。
 わたしは、再びペダルを漕ぎ始めた。

 東のほう、ずっと彼方から雨雲がせり出してくる。よく見ると、雲と海上との間がけぶっていた。すでに雨となって落ちているようだ。それも、相当に激しく。
「あの雲はこちらに向かっているのかなぁ。それとも、そのまま遠ざかっていくんだろうか」
 来るなら来ればいい、そう思った。ザーッと通り過ぎてくれれば、汗を洗い流し、さっぱりさせてくれそうだった。天然のシャワーである。
 けれど、もしも一緒に走るはめになったとしたら?
「まあ、そうはいっても、やまない雨なんてない。雨雲とおしゃべりをしながら、このサイクリングを楽しむことにするよ」そう、独りごちる。

 半時ばかり走り続け、そういえばさっきの雨雲はどうなったろう、と振り返った。
 とっくにどこかへ消えて、明るい陽が射している。わずかながら、雲の断片がふわふわと漂っていたけれど、すっかり漂白され、まるで真綿のよう。
「あの雲、何かの形に似ているなぁ」道から転げ落ちないよう、何度にも分けて脇目をする。蓄えてきた知識と想像力を駆使して、心のもやもやを解消しようと奮闘した。
 さんざん頭を悩ませた末、はたと気がつく。
「そうだ、あれは波間で跳ね上がるイルカだ。水しぶきを立て、体を反らせた様子までそっくり」

 胸のつかえが取れ、ようやく集中力を取り戻すことができた。真正面を見据え、自転車を運転する。
 海を切り分けるようにして真っ直ぐ伸びる、白い1本の道。
 まだまだ、終着は見えてこない。

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