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霜の降りた朝は

 日曜日の朝、肩口の隙間から忍び込む冷気でぶるっと震えながら目を醒ます。今朝は、一段と寒い。
「もしかしたらっ」パッと起き上がると、大急ぎで窓を開けた。
 ようやく白んできた空の下、地面や停まっているクルマなど、何から何までキラキラと白く輝いて見える。
「やっぱり!」窓枠についた手が冷たさのあまり痛くなるのも忘れ、わたしは辺りの様子を眺め続けた。
 深霜が降りたのだ。

 こうしてはいられない。早く支度をしなくっちゃ。
 夕べのシチューを温め直し、インスタント・コーヒーと目玉焼きで簡単な朝食を済ます。
 暖かい格好に着替えると、玄関を飛び出した。
 薄暗い電停に人影がある。中谷美枝子が立っていた。
「あ、来た来た。もしかしたら、来ないのかと思ったよ」わたしに気付き、手を振って迎える。
「そんなわけないじゃん。だって、深霜だよ? 逃したりなんかしないよ」
 年に1度、ひどく冷え込んだ朝には霜が降りる。土を盛り上がらせるだけの、ケチな霜なんかじゃない。アスファルトの道路も、コンクリート塀も、まるで冷凍庫から取り出したばかりのアイス・キャンディーのように真っ白く覆い尽くしてしまう、そんな深い霜だった。

「そろそろ来るね」時計ではなく、空の明るさを確かめながら、中谷が言う。
 深霜には、通常ダイヤの始発よりもまだ早い「一番電車」がやって来るのだ。
「今回はかなり厚着をしてきたよ」わたしは着ているダウンを、ポンポンと叩いてみせる。
「電車の中、結構寒いもんね。わたしなんか、ほら。下に敷く座布団まで持って来ちゃった」
 座布団かぁ。そこまで気が回らなかった。
「家を出る時、電話してくれたらよかったのに。ついでに、座布団のことも教えて欲しかった」
「ごめん。でも、起きてすぐに深霜だって気付いたんだし、それはあんただって同じでしょ? 慌てて身支度して、出てきたんだもん」

 遠くからチリン、チリンと音を響かせ、路面電車が近づいてくる。
「ほら、電車が見えてきた」わたしは指差した。
 滑るようにホームへ入り、シューッと唸って停車する。
 車体も車輪も、それからパンタグラフまでも、すべてが氷でできている臨時電車だった。
「足下滑るから、ゆっくり乗ろうね」中谷は慎重にステップへと足を乗せる。
 車内は冷凍室にでも入ったような寒さだ。
 中谷はさっそく、自前の座布団を氷のシートの上に敷く。
「ほら、むぅにぃ。半分、座らせてあげる」そう言って、おしりを少しずらした。
「うん」狭いけれど、お互いにぴったりくっつけば、どうにか座れる。それに、暖かくもあるので悪くはない。

「発車しまーす」くぐもった声が運転席から聞こえた。思わず、そちらへ目を向けてしまう。運転士は雪だるまだった。
「あの雪だるまって、去年のときの使い回しかな?」中谷が小声で聞いてくる。
「まさかぁ」そう答えたものの、確信は持てなかった。ちらっと見える横顔は、去年の運転士と同じようでもあり、別人のようでもある。
「まあ、雪だるまなんて、どれも似たようなもんだしね」と中谷。確かにそうだ。大小の雪玉をポンと重ねた典型的なだるまで、目鼻口には、木炭が使われていた。多少、並びが変わったとしても、誰が気にするだろうか。

 電車はレールを軋ませながら、ゆっくりと動き出す。しばらくは、いつも通りの線路を走るが、大通りに出る手前で、急遽設けられたコースへと軌道を切り替えた。
「つららのレールに入った」中谷がうなずく。
「鉄のレールなんかと違って、滑らかだし、静かだよね」それこそ、スケート・リンクの上を滑っている気がした。「ふつうの電車も、つららの線路にしちゃえばいいのに」
「ばかね、冬はいいとしても、夏場が困るじゃないの」中谷が笑う。
「あ、そうか。つららは冬しか取れないんだっけ」 
 
 つららのレールは小路に沿って敷かれ、曲がったり上ったりと、なかなか大忙しだ。
「去年、この道通ったっけ?」わたしは聞いた。
「うーん、通らなかった気がする。毎年、路線が変わるんじゃないかな」
 初めのうち、のんびりとしていた氷の電車だが、徐々にスピードを増していく。
「いよいよだね」
「うん、いよいよだよねっ」
 軒と軒との間を走っていた電車が、急に開けた場所へと出た。厚く氷が張った湖だ。
 広々とした氷の上では、つららのレールが螺旋を描いたり、急上昇、急下降している。高低差数十メートルにも達する、ジェット・コースターだった。

「本日のクライマックス!」わたしは有頂天になって叫ぶ。
「怖いよーっ、だけど、サイコーに面白ーいっ!」中谷など、まだコースに乗らないうちから絶叫気味だった。
 朝日が地平線から洩れ始める。絶妙なタイミングだ。
 絡み合うレールを走る電車と、照らす陽の光。氷の車体が通過すると同時に、つららは溶け出し崩れて落ちる。一瞬でも止まれば、そのまま真っ逆さまだ。
「このスリルがたまらないんだよねっ」電車は、頂上へと昇っていく。
「レールがパリパリいってる。絶対に安全だってわかってるけど、でも、やっぱり、怖い怖い怖いっ!」
 コースの上で、いったん停車をした。背後では、次々とレールが砕け散っていく。わたしの胸が、ドキン、ドキン、とやかましく打ち始めた。
 あとちょっとで足場を失う、そう覚悟したそのときである。
 フワッと浮いた感じがし、ほとんど直角に滑降していった。
 後ろの窓を振り返る。
 砕けたレールが光の粒となって、キラキラと宙を舞うのが見えた。

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