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蛇口

 子供の頃、ほんのイタズラ心から、とんでもない事件を起こしたことがあった。人生最大の失敗だったと、いまでも悔やんでいる。

「いい? ママ、これからお出かけしてくるけど、絶対に火で遊んじゃダメよ。それから、水道を使ったら、必ず蛇口を締めてね」
 母はくどいほど言い置いて、やっと出かけていく。
 火遊びは魅力的だったけれど、恐ろしさもよく知っていた。先月、同じ町内で火事があったばかりだからだ。
 わたしは、父や母、それに2人の妹達と窓から身を乗り出し、夜空を赤く染める炎を見た。つんと焼け焦げた臭いがここまで漂ってくる。消防車や救急車が、狂ったようにサイレンを鳴らして走り回っていた。
 いつか、絶対にこのことを夢に見るだろうな、そうわたしは確信した。
 テレビや映画などとはまるで違う、本物の恐怖だった。

 火事があったばかりということもあって、手の届く場所にはライターもマッチも置かれていない。調理にしたところで、せいぜいたい焼きをレンジで温めるくらいなものだ。
 そもそも、わたし自身が怖がっているのだから、火遊びなどしようはずもない。
「けれど、水遊びは別だよね」わたしはさっそく浴室へ行った。空っぽの浴槽に栓をし、蛇口を捻る。
 9月はまだ始まったばかり。日中の暑さは夏とまったく変わらない。水浴びでもしなければ、とてもやってられなかった。
 浴槽いっぱいに水が溜まるまで、当分かかりそうだ。それまで、居間でテレビでも観ていよう。
 わたしは浴室を後にした。

 テレビでは、ちょうどアニメをやっていた。いったん観はじめると夢中になり、時間が経つのも忘れてしまう。
 浴槽のことを思い出したのは、溢れた水が自分の座るカーペットを浸し始めた頃だった。
「わあっ、なんだこれ! あ、そうだ。お風呂の蛇口を開けたまんまだった!」
 ネズミ花火のように飛びあがり慌てて浴室に行くが、ガラス戸の向こうは、もう水で満杯だった。
「ど、どうしようっ」
 ぐずぐずしている間にも水はどんどん漏れてきて、タンスも冷蔵庫も部屋の中でプカプカと漂い出す。
 
 こうなってしまっては外へ逃げるより仕方がない。
 玄関までざぶざぶと漕ぐようにして歩き、ドアを開けて外に出た。
 水と一緒に、威勢よく道へ押し出される。その道路ですら、すでに川と見分けがつかないほどだった。
 いつも遊んでいる近所の子が数人、じたばたともがきながら3丁目の方に向かって流されていくのを目撃した。
 大人達でさえ、腰まで浸かった水をかき分けながら、必死の形相で進む。
「どうなっちまってるんだ、こりゃあ。どこもかしこも水浸しじゃないか」
「雨でもないのに、なんだって洪水になってるの? 近くの川が溢れてるのかしら」
 わたしは電柱にしがみつきながら、通行人達が口々に言うのを聞いていた。

 大変なことになった。なんとか浴室の蛇口を止めなくては。
 けれど、水の勢いは増すばかり。電柱から手を離したりしたら、たちまち流されてしまう。
「おや、むぅにぃちゃんじゃないか。大丈夫かい? 待ってろよ、いまそっちへ行くから」声をかけてきたのは、隣の家に住む大学生だった。暇なときもそうでないときも、よく一緒に遊んでくれる。
「あの、うちのお風呂場の蛇口を止めてください。これって、そこから溢れちゃってるんです」わたしは半べそをかきながら、ようやくそれだけのことを伝える。
「なんだって、これ君んちから出ているのかい? よし、わかった。すぐに泳いでいって、蛇口を締めてくるよ。むぅにぃちゃんは、電柱にしっかりつかまってるんだぞ」
 そう言うと、得意のクロールで、開けっ放しの玄関から中へ入っていった。

 安心したせいで気が緩んでしまい、うっかり電柱から手を離してしまった。
 わたしの体は木の葉のように流されていく。浮き沈みを繰り返しながらたどり着いたのは、3丁目の交差点の角の標識だった。
 もう流されるのはこりごり、と今度こそ必死になって標識を抱きしめる。
 標識には「栓はここ。町が水浸しになったら引き抜きましょう」と書かれていた。
「ああ、ちゃんと栓があるんだ。お風呂みたいに、ここも栓を抜いてしまえばいいんだよね」
 栓に結んである鎖をたぐり寄せ、力いっぱい引っ張った。スポンッ、と音がして、たちまち小さな渦ができる。
「これでよし、と」ほっと息を吐いた。
 
 ごうごうと音を立てながら、町中の水が渦に吸い込まれていく。
 だいぶ水が引いてきたので、しがみついていた標識からひょい、と降りた。
 ところが、バランスを崩して排水口に足がすっぽりとはまってしまう。
「あ、いけないっ……」
 引き抜こうとするが、どうしても抜けない。
「どうした、どうした」
「子どもが排水口に足を取られたらしい」
「よーし、みんなで引っ張れっ。そーれっ!」
 町中総出でわたしを穴から引き抜こうとするが、よほどうまい具合に収まっているのか、びくともしない。

 それから今日まで10年間、わたしは交差点の角にずっと立っている。

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