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あした、せかいがはじまる

 ぼくらは長い間まどろんでいた。長い間というのはいささか正確さを欠くかもしれない。まどろむぼくらには、そういう時間の感覚と言うものが皆無だったからだ。それは永遠と言っていいくらい長い時間だったし、一瞬と言えばそう言えなくもない。そんな時間だ。いや、そういう言葉自体がとても不適切に思える。すべてはとても曖昧で、こことそことには境目がないし、時間も刻一刻と進むものではなくて、もっとぼんやりとしたひと塊としてあるような、ないような、そんな状態だ。ぼくらはまどろんでいる。まどろむとはそういうことだ。あるいは、不適切という言葉もまた不適切なのだ。適切と不適切を整然と切り分けることもできない。
 そこではもちろん、自分と他人の境界もとても曖昧で、ぼくらは、ぼくは誰かと抱き合いながらまどろんでいたようにも思うし、ひとりきりでぼんやりとしていたようにも思える。あるいは、そのどちらでもあるのかもしれない。ぼくがいて、誰かがいるということが、それほど重要なこととも思えない。
 それはそれで平和である。争いが無いかと言えば、そんなこともないように思うが、それはそれほど気に病むことでもなく、死もあるにはあるが、それが重要な主題になることもない。生も死も、その境界は曖昧で、それほど大きな差は無いからだ。
 ところがある日、ある時、状況が一変したのだ。
「明日」と、ぼくはまどろみながら言った。「世界がはじまるらしいよ」
「世界?」と、ぼくはまどろみながら上の空で言った。
「そう、世界」と、ぼくは言う。
「世界って」と、ぼくは言う。「何?
「世界は」と、ぼくは言う。「世界さ」
「明日って、いつ?」と、ぼくは尋ねる。
「明日は明日さ」ぼくは答える。「昨日でも、今日でもない、明日」
「昨日?」ぼくは眉をひそめる。「今日?なんだい、それは?」
 ぼくは肩をすくめる。「しかたがないじゃないか」
「なにが?」ぼくはなるべくケンカ腰に聞こえるように言おうとするが、まどろみながらだとそれはとても難しい。せいぜいぐずっている子どもといった具合にしかならない。「なにが、しかたがないの?」
「明日があるから」と、ぼくはそんな威嚇的な態度には気づかないふりをする。気づいたところで、自分の機嫌は自分でとってもらうしかないと考えている。「昨日があり、今日がある」
「もう」と、ぼくは憤然として言う。「元には戻れないの?」
「そうだね」ぼくは肩をすくめる。
 ぼくは憮然とする。まどろみながら。
「怒っているの?」ぼくは尋ねる。内心不安である。ぼくを怒らせるとろくなことにならないからだ。とはいってもそれは、まどろみながらのことではあるけれど。まどろみながらであれば、どうしたって高が知れている。
「怒ってなんか」と、ぼくは答える。「いない」怒る理由なんてどこにもないのだ。「しかし、はじまるなんて。おわるならまだしも」
「そうだね」と、ぼくはささやくように言った。自分の中にさざ波を立てないように。「おわるならまだしも、はじまるなんてね」
 終わってしまうのなら、どれだけよかったか。それはその痛みに耐えればいいだけのことなのだ。失われる、その痛み。しかし、始まるとなれば話は別だ。まどろんでいても、それはわかる。
「はじまると」と、ぼくは小声で言った。それよりも少しでも大きな声を出していたら、ぼくの怯えが露わになっていたことだろう。「どうなるんだろう?」
「わからない」と、ぼくは答えた。なるべく断定的に聞こえるように。「わからないよ」
「怖くない?」
「怖い?」
「怖い」
「怖くない」
 明日、世界は始まる。まどろみは破られ、昨日と、今日と、明日が整然と分かたれた世界が現れるだろう。


No.523


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