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わたしの愚かな心

 ある雨の夜、女が一匹の子猫を拾った。雨に打たれたその小さな黒猫は、箱の中で寒さに凍え、小刻みに震えていた。
「可哀想に」女は手を差し出し、そっと子猫を包んだ。「こんなに濡れて」
 とはいえ、女も傘を持たなかったから、女自身もぐっしょりと雨に濡れ、額には濡れた髪が貼り付き、服はおろか下着までビショビショだった。
 子猫は女の手に包まれる時、一瞬身を固くし、しばらくはその手の中でも震えていたが、女の胸に抱かれると、ようやく落ち着いたようだった。もちろん、その胸だって雨でずぶ濡れだったのだけれど。
「わたしたち、似た者同士だね」女は子猫に話しかけた。子猫は寝息を立て始めていた。
 女は子猫を連れて帰り、その子猫に「わたしの愚かな心」と名付けた。そうして女は子猫と一緒に暮らすことなったのだった。雨に打たれた憐れな子猫だったその猫は、そういった子猫一般と同じように弱々しく、いつその命の炎が消えてしまっても不思議ではないほど儚かったが、女の甲斐甲斐しい世話のおかげだろう、すくすくと育ち、美しい毛並みの黒猫になった。周りを見下すようなところのある、美しい雌猫だ。歩く時にはまるで女王のように周囲を睥睨しながら歩くのだった。とても素早かったし、ずる賢かったから、いつもなら飼い猫をバカにしているあたりの野良猫たちでさえも、その猫を見ると隠れるほどだった。
 そんな猫だったから、飼い主である女に甘えることなどなかった。機嫌が良ければ、猫は女が自分の毛並みを撫でることも許したが、それすらも稀だった。それでも女は猫のことを大切にした。あるいはそれが猫を増長させたのかもしれない。猫は自分こそが主人であり、女はその従者であると考えていたのではあるまいか。
「わたしの女王様、わたしの愚かな心」そんなことを言って、女はどんなことがあっても猫を甘やかし続けるのだった。どんな食べ物も拒否しようと、不意に何日も家をあけ、気を揉む日々を送らされても。どんなことがあっても、女は猫を愛した。
 そんな猫が、ある日いなくなった。家を何日もあけることはそれまでもあったから、女はその不在もまたそうした小旅行なのだと考えた。あるいは、こうして気を揉ませて楽しんでいるのかもしれない。そんなことを思いながら、女は気を揉みながら猫の帰還を待った。雨が降ればそれに濡れていないか心配し、量販店で猫の好きだった餌を見ると腹を空かせているのではないか不安になった。そんな風に、女は何日も何日も猫の帰りを待った。しかし、猫は帰って来なかった。
 女は猫を探すことにした。狭い路地を抜け、軒下を覗き込む。猫の好みそうなところは手当たり次第に探す。女は猫が外のどんなところに行くのかを知らなかった。詮索するのは躊躇わられた。女王を詮索することなどできない。とはいえ、詮索するにも問いただして答えるわけでもなし、あとをつけようとすぐに見失ってしまっただろうけれど。
 女の頭には最悪のケースが渦巻くようになった。もともと悲観的な女だったが、猫のことに関してはあくまでも楽観的だった。猫は賢く、迂闊なことはしないという、信仰にも似た確信があったのだ。それでも、あまりにも長い猫の不在はその信仰を揺らがせ始めたのだ。トラックの多く走る街道を、黒猫の死体を探し、不安を抱えながら行ったり来たりして、それらしきものが見つからないことに胸を撫で下ろしたりするのだった。
 そして、女はひとつの結論にいたった。とはいえ、女の頭にはその結論がまず最初に浮かんでおり、それを避けるために長大な回り道をしたも同然だった。
「自分で出て行っちゃったんだね」女は雨の降る夜、窓から外を見ながらそう呟いた。女の眼から、涙がひとすじ流れた。女はそうやって声を上げずに泣いた。
「さよなら、わたしの愚かな心」


No.99

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