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絵描きさん

 まだわたしの小さい頃、近所に絵描きさんと呼ばれる人が住んでいた。若い男の人で、いつも絵を描いていたから、みんな絵描きさんと呼んでいたのだ。
 河原で見かける時も、森の入り口で見かける時も、町で見かける時も、絵描きさんは必ず絵を描いていた。
「こんにちは、絵描きさん」と声をかけると
「こんにちは」と微笑みながら返してくれた。そして、その膝に置かれたスケッチブックを覗き込むと、わたしたちの住むその土地の様々な景色が、まるで切り取ってそこに収めたみたいに集められていた。写真みたいに本当の景色そっくりというわけじゃなくて、なんというか、匂いや温度や湿度も閉じ込められた、その場所自体が描かれている感じだった。
 絵描きさんの本当の名前はわからない。みんな絵描きさんとだけ呼んでいて、名前で呼ぶことなんてなかったし、結局のところ、絵描きさんは無名の絵描きで終わってしまって、名の知れた画家にはなれなかったからだ。絵描きさん自身はそうなること、有名になることを切望していたにも関わらず。
 過去を語ることの悲しみとはつまりこういうことなのだ。夢を見る若者の行く末が既にわかってしまっている。絵描きさんは有名な画家にはなれなかった。それを目指していたのに。しかし、それは「この話の時点」ではまだ先のことであり、当時の絵描きさんは絵だけで食べていくことを真剣に目指していたし、そうなるだろうと本当に、心の底から信じていた。わたしはそう思う。
 絵描きさんは夢を見ながら日々を過ごしていた。絵を描き、それが売れることを願った。しかし、それは売れなかったし、売れないとお金は入らなくて、お金が無ければご飯が食べられなくなってしまうので、絵描きさんは近所の子どもたちを集めて絵画教室を開いて、そこで少しだけお金を稼いでいた。しかし、わたしの家も含め、その辺りに住んでいた人たちは、あまりお金を持っていなくて、芸術に興味も無かったから、子どもたちはあまり集まらなかった。
 最初は子どもに絵を教えるんだと張り切っていた絵描きさんも、あまりにも集まった子どもが少ないのでだんだんとやる気を失ったのだろう、写生と行って外に出て、そこでみんなで鬼ごっこをしたりして遊んでいるということもしばしばだった。まるで子守りをやっているみたいなものだったけれど、絵画教室に子どもを通わせるのはそれが目的みたいなものだった。貧しい家庭は、母親も働きに出なければならなくて、うちもそうだったのだけれど、そうした母親たちにとっては、安い月謝で子どもを見ていてもらえる絵描きさんは願ったり叶ったりだったのだ。
 こんなにわたしが事情に詳しいのは、わたしが教室に通っていたからだ。わたしは絵を描くのが苦手だった。それは絵画教室に通っても変わらなかった。それはそうだ。だって、絵描きさんの絵画教室では鬼ごっこをしたりして遊んでいるだけなのだもの。絵が上達するはずがない。たぶん、他の子どもたちも似たようなものだろう。でも、それでも誰も文句は言わなかった。遊んで、たまに絵を描いて、それは結構楽しかった。夕焼けの河原を、みんなで歩きながら帰ったのを覚えている。空は真っ赤で、トンボが一杯飛んでいて、スケッチブックはまっさらで、わたしたちの洋服は土で汚れていた。それ自体が一枚の絵みたいだった。
「あらあら、スケッチブックじゃなくて洋服にお絵かきしてるみたいね」と、泥だらけで帰ったわたしを見て母は笑っていた。夕げの香りに包まれていた。
 絵描きさんは優しかったから、みんな絵描きさんが好きだった。わたしたちは絵描きさんが怒ったところを見たことがない。いつも自由、自由と言って、わたしたちのやりたいようにやらせてくれた。風景画を描いた時、空を緑色に塗って見せても怒らなかった。
「空は青でしょ!」と学校の先生には怒られたけど、絵描きさんは怒るどころか褒めてくれた。
「君がそう見えたなら、空はその色なんだよ」
 じっと見ていると、空には青だけじゃなくて、緑も赤も、黄色も紫もあった。だから、わたしはそれをそう描いた。
「空は青じゃないんだよ」と、わたしは絵描きさんに言った。
「そうだね」と絵描きさんは言った。
 わたしはそれが嬉しかった。相変わらず絵を描くのが苦手だったけれど、わたしは絵を描くのが好きになっていっていた。それはわたしを自由にしてくれたからだ。
 そして、ある日突然、絵描きさんはいなくなった。さよならも言わずに。

No.340

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