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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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#超短編小説

指紋

指紋

「君の触れたものはことごとく」という書き出しが浮かんだのは午前三時。「棄ててしまうことにしました悲しいから」布団にくるまり寝付けないでいる時。
実際に指紋たちが騒ぎ出したのは午前三時半。それはグルグルグルグル渦を巻き、見ていると呑み込まれそうになる。だからきつく目を閉じた。チカチカと星が飛ぶくらい。しばらくそうしていたけれど、疲れたからやめた。
「君の触れたその指紋たちが」という続きが浮かんだ。「

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神待ち

神待ち

 神待ちしていたら神が来た。正真正銘、まごうことなき神だ。神ってあの神。本物の神。わざわざその証明をするまでもない。なにしろ全知全能の神である。わたしにそれを信じさせるなんてことはわけのないことだ。神のその姿を見た瞬間、わたしはそれが神なのだとわかった。理屈や論理は一切抜き。わたしは息をついた。
「あんたを待ってたんじゃない」わたしは言った。
 神は肩をすくめた。
 スクランブル交差点の信号が青に

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バイバイ、またね

バイバイ、またね

 夏が終わる。夏が終わるのなんてどうでもよかった。夏なんていくらでも終わればいい。夏が終わる。ヴァカンスが終わる。君がここからいなくなってしまう。君の暮らす都会の街ははるか彼方。ここからはまるで宇宙の果てみたいに遠い場所。それが問題だ。
「本当は」と、君はいたずらっぽい笑みを浮かべながら言う。「海なんてイヤだったの。どうせ別荘を持つなら、山の方がいいなって思ってた。でも、パパがヨットで遊ぶのが好き

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たったひとつの正しさ

たったひとつの正しさ

 朝の洗面所、鏡の前で弟が妙な動きをしていた。鏡と横向きに立ち、じっと動かず、横目で鏡の中の自分の姿を見ている。わたしはなにも言わず、しばらくそれを観察していた。まだ動かない。いったいなにをしているのか。わたしは少しイライラしはじめていた。なにしろ朝の忙しない時刻だ。わたしも洗面台を使いたい。声をかけようとした瞬間、弟は素早く顔を鏡の方に向けた。そして、自分のことをじっと見ている。
「なにしてんの

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はい、コーチ

はい、コーチ

 わたしのコーチはママです。ママのことはコーチと呼ばないとだめです。どうしてかというと、ママはママじゃなくて、コーチだからです。
「もうママはママじゃないの」と、ある日ママは言いました。「コーチ。コーチと呼びなさい」
「はい、ママ」と、わたしは言いました。ママはため息をつきました。
「ママじゃない。コーチ」と、コーチは言いました。
「はい、コーチ」と、わたしは言いました。コーチはうなずきました。

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最後の共同作業

最後の共同作業

 ソファを粗大ゴミに出すことが、わたしたちの最後の共同作業になった。
 それはあまりにも大きかった。とてもではないけれど、ひとりではビクともしない。だから、少しずつ部屋を片づけく過程で、どうしてもそれのことは見ないふりをし、最後の最後まで残ってしまったのだ。いらないものは捨て、わたしのものはわたしの転居先へ、夫のものは夫の転居先へ送り、そして最後に残ったのがそのソファだった。なにもなくなった部屋に

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プロフェッショナルの夜

プロフェッショナルの夜

 彼はプロ野球選手だ。野球をやって糊口をしのいでいる。プロフェッショナル。しかしながら、それはもうじき「だった」になるかもしれない。彼はプロ野球選手だった。過去形。いまは違う。そうなるかもしれない。
 そもそものはじまりからして、どうにかこうにかその位置を掴んだのが彼だった。いくつかの球団のテストを受け、どうにかトレーニングキャンプに招待されるが、正式な契約にはいたらない。そんなことが何度か繰り返

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これは恋?

これは恋?

 若いころ思いを寄せていた人の夢を見た。いや、その夢を見て、自分が彼女に思いを寄せていたということを理解したのだ。
 目覚めたわたしは、自分の老いさらばえた手の甲を目の前にかざした。ああ、自分は老いたのだと、腑に落ちた。わたしは老いたのだ。彼女もまた老いたのだろう。どのくらい会っていないだろうか。わたしは横を向き、眠っている妻の背中を見た。妻もまた老いた。誰にも時間は平等である。そうしてときは流れ

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ハロー、悲しみ

ハロー、悲しみ

「なに読んでんの?」と、声をかけられた。縁側、庭には真夏の強い日差しが降り注いでいる。セミの鳴き声がうるさい。わたしはいつもそこで寝っ転がりながら本を読んでいた。声をかけられ、身を起こす。汗ばんだ肌が床板からはがれる。
「なに? それ?」いとこだ。あごをしゃくる姿がムカついたからわたしは黙っている。いとこはわたしの手の中にある文庫本をのぞき込んだ。わたしはそれを自分の方に引き寄せる。それでも強引に

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賢い竜たちのした選択

賢い竜たちのした選択

 かつて、地上は賢い竜たちのものだった。彼らはほんの数頭しかいなかったのだけれど、彼らは巨大で、屈強で、軽々と空高くを飛んだし、日の光の届かないような海の深くまで潜ることもできた。あまつさえ、炎を吐くことまでするのだ。他のどんな生き物たちが束になってかかっても絶対に敵わない。そんな存在である賢い竜たちを、他の生き物たちは畏怖の眼差しで見たものだった。虫も、魚も、鳥も、犬も猫も。そして、もちろん人間

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自転車に乗って

自転車に乗って

 わたしは自転車に乗れない。
 自転車に乗れなくても、ちゃんと学校を出たし、真面目に仕事をしている。自転車に乗れなくても、わたしのことを好きになってくれる人に出会えて、結婚もした。自転車に乗れなくても、そんなことは人生において些細なことであり、なにひとつ引け目に感じるようなことではない。
 別に、自転車に乗れなくてもいいのだ。自転車に乗れなくて困ったことはそんなにない。
 小さな子たちが、歩いてい

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すべてを失っていない男

すべてを失っていない男

 目覚めた瞬間に違和感があった。開いた目の捉えた天井が見慣れないものだったからだ。前夜を思い出そうとする。どこかに出張に出た記憶は無い。家族旅行にも出ていない。ホテルや旅館で目覚めたとき、それと同じような違和感を覚えることが以前にもあった。そのときには、すぐに前日までのことを思い出してその混乱は解消されたものだったのだ。しかし、今回は違う。男がどれだけ考えても、前夜は自宅で床に就いたはずなのだ。

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悪い女の子

悪い女の子

 彼女は悪い女の子だ。
 赤信号で横断歩道を渡るし、ゴミはそこらへんにポイ捨てする。タバコの吸い殻は排水口に投げ捨てるし、優先スペースに駐車する。飼っている小型犬を蹴っ飛ばして骨折させ、反撃にあって噛みつかれる。自転車にふたり乗りしているのを警官に注意されると「死ね」と吐き捨てるし、すぐに「クソ」と言う。正真正銘の悪い女の子だ。
 一度だけ、ゴミのポイ捨てを注意したことがある。
「いい?」と、彼女

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世界終わるってよ

世界終わるってよ

「世界終わるってよ」と、友人が言った。
「えっ?」と、言って、ぼくは絶句した。
 友人が言った世界とは世界のことじゃない。この世界、学校とか、塾とか、地球とか、そういう世界じゃない。それは駅前のゲームセンターのことで、なんとかワールドってのがホントの名前だったけど、ぼくらは「世界」と呼んでいた。
 いや、もしかしたら、そこはぼくらにとっての世界だったのかもしれない。ぼくと友人はそこに入りびたってい

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