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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2021年3月の記事一覧

いかれた君はベイベー

いかれた君はベイベー

 夜、犬の散歩をするのがぼくの役目なのは、君も知っての通りだと思うけど、うちの犬の名前が犬なのはたぶん言ってなかったんじゃないかと思う。どうでもいいけど。ちなみに、朝に犬の散歩をするのは弟の役目だ。これは公明正大に決められた。ぼくが朝寝坊で、無理やり弟に朝の役目を押し付けたわけじゃない。ぼくはフェアな人間だし、第一、弟はちょっと年上の人間がなにか言ったらそれに唯々諾々と従うような、そんなやわな奴じ

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ARBEIT MACHT FREI

 鉄の扉が閉ざされ、錠の下ろされたその一連の音は、断頭台で刃が落ちる音に似ていたのではないだろうか。そのもたらす結果が、性急か、それとも緩慢かの違いはあるにせよ、起きたこと、あるいは起きることは同じなのだから。
 と言っても、そんな音に注意を払う者はいなかっただろうし、その類似性に気付く者もいなかった。緩慢であるが故に、希望を殺すことはできない。緩慢な死は、希望を殺せない。否、緩慢な死は、死を悟ら

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彼女は喋れない

彼女は喋れない

 大学出で、これといった実績もなく将校になったわたしの評判は、特に現場で叩き上げの連中にすこぶる悪かった。もちろん、その辺りを勘案して彼らに接することさえすれば、それなりに良好な関係が作れたかもしれないが、こちらはこちらで彼らのことを学の無い連中とはなから馬鹿にしていたものだから、自然と態度も横柄になる。我々は同じオフィスを使おうとも、本質的に相容れないのであった。その摩擦は些細なことで顕在化し、

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水の底の悲しみは

水の底の悲しみは

「湖に沈めた」と、彼女は囁くように言った。「悲しみがあるの」
 そのころのぼくは、人里離れた森の中の小屋で暮らしていた。なかなかに困難な出来事が重なり、都会で生きるのが苦しくなった時期だった。もう少しあそこにとどまっていたのなら、ぼくは憎悪の虜になっていたことだろう。あそこに住まう多くの人がそうであるように。誰かが誰かを出し抜き、それに憤り、それを誰かにぶつけ、その人がやり返したり、また別の人にぶ

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死んでる暇なんて

死んでる暇なんて

「なんで私なんです?」男はとげとげしく言うとため息をついた。「やっぱり納得できないな」
「さっきから何度も説明していますように」死神は普段でさえ困って見える八の字眉毛をさらに下げて言った。
「ルーレットだって言うんでしょ?」男は死神の言葉を遮って言った。
「はい」
「それが納得できないんですよ」
 死神は困りきっていたが、同時にこの事態はいつものことで慣れっこでもあった。死神の仕事はいつもこんな調

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巨人のいる風景

巨人のいる風景

 頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺めていると、巨人が歩いていた。今朝の予報には巨人が出るなんてのは無かったから、もしかしたら急に進路を変えたのかもしれない。そんなことはよくあることだし、驚くようなことではないけれど。
 わたしはそのまま巨人を見ていた。よく晴れた春の日、席替えで窓際の席になってからというもの、授業中はついつい窓の外を眺めてしまう。今度の定期テストではきっと壊滅的な点数を取ることにな

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悪の怪人と正義のヒーロー

悪の怪人と正義のヒーロー

 人々の悲鳴が街に響く。怪人が現れたのだ。悪の怪人である。
 怪人は悪の限りを尽くした。なにしろ悪の怪人だ。茶碗についた米粒なんて知らん顔、嫌いな人参は全部選り分けて残した。コンビニの傘立ての誰かの傘を拝借し、駐輪禁止の場所に平気で自転車をとめた。トイレで用を足した後に手を洗わず、靴の踵を踏んで歩いた。怪人の悪の所業の数々、街の人々は恐怖のどん底に突き落とされた。
「誰か、誰か助けてくれ!」誰かが

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サヨナラ、未来

サヨナラ、未来

 むかし、まだぼくが学生だったころに住んでいたアパートが取り壊されていた。わざわざ様子を見に行ったわけではない。たまたま仕事でその近くに行くことになり、まさにぼくの住んでいたアパートの前を通り掛かることになったのだ。町並みもすっかり変わってしまっていた。ぼくが学生時代を過ごした町。たいした思い入れもないと思っていたのに、こうして時をへてから来てみると意外にも感慨深い。あのパン屋が無くなっているとか

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彼女が死んでしまった昼下がり

彼女が死んでしまった昼下がり

 彼女が力なく横たわっていた。近づいて顔を覗き込むと目をつむっている。穏やかな表情だ。ぼくは彼女が眠っているのだと思った。昼寝にはちょうどいい春の昼下がりだ。
 ぼくは横たわる彼女の身体をまじまじと見た。普段なら、そんなにじろじろと見るのは憚られたに違いない。彼女だって、そんな視線にさらされたら文句のひとつでも言うに違いない。
「なに見てんのよ」
 それは質量とある空間を占める現実的存在だった。有

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憎悪の憎悪

憎悪の憎悪

 男は気付いたのだが、その気付いたのが自分の記憶の無いことであってみれば、はたして男はどの時点からその男としてあったのかがややこしくなるのだが、男は便宜的に気付いた瞬間から自分が自分となったと納得できる程度に割り切った性格だった。その性格も男が自分の記憶が失われていることに気付いた瞬間に付与された、あるいは選び取ったものかもしれないが。
 その事実、つまり記憶喪失であるが、それに気付いた男は、頭

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彼女の繭

彼女の繭

 部屋に帰ると、彼女が繭になっていた。玄関で「ただいま」と声をかけても返事がない。嫌な予感に胸騒ぎがする。扉をひらく。寝室の片隅に、白く美しい繭があった。日に照らされたそれの白い糸は、サラサラと輝いていた。ぼくの目から、涙がこぼれた。それが彼女が繭になってしまったからなのか、それとも、その繭があまりに美しかったからなのか、ぼくはいまだにどちらなのかわからずにいる。
 実際のところ、ぼくにはある程度

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すごく静かな教室で

すごく静かな教室で

 ぼくは犯人を知っていた。彼女だ。犯人は彼女だ。
 朝、登校するとウサギ小屋の周りに人だかりができていた。メタセコイアの背の高い木のすぐ脇にあるウサギ小屋だ。普段なら、少し足を止めてウサギの様子を見るようなやつがいるくらい、それだってよほどの物好きなやつで、みんなウサギがそこにいるなんて忘れてるんじゃないかってくらいの感じだった。胸騒ぎがした。女子が泣いている。確か、飼育係だったやつだ。慌ただしく

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金が物言う世の中じゃ

金が物言う世の中じゃ

 彼こそがその世界の創造主であった。と言っても、彼自身が神であったのではない。「光あれ」なんてセリフも口にしていない。
 彼は金銭を崇めた。そして、それこそが世界を動かす唯一無二の原理であり、神なのだと、彼は考え、その考えに従って行動したのだ。金を産み出すために働き、ものを売り、金を使った。あるいは、彼はあくまでも預言者のようなものでしかなかったのかもしれない。金を、貨幣を、資本を神としていただき

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誰かの悪夢

誰かの悪夢

 不運なことに、その男は悪夢の中に生まれた。純然たる悪夢。悪夢のような世界に、ではなく、悪夢だ。夢、それも悪い夢、しかもそれは、男の悪夢ではなく誰かの悪夢だった。
 もちろん、それは完全なる第三者の、あるいは超越的な視点、場合によっては神の視点とでも呼ばれる立場から見てこそわかる事実ではある。誰もが、自分の生まれ落ちた場所がどんな場所なのかを正確に把握などできない。なにしろそれ以外の場所を体験する

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