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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2020年12月の記事一覧

忘却の水

忘却の水

 その頃には正確な天体観測に基づく、精巧な暦が出来ていたので、これが昔々のお話ではあっても、このお話に登場する人々はどのくらい日の出と日没を繰り返すと季節が一巡りするかを知っている。とはいえ、彼らはまだ天動説を信じていたので、その季節の一巡りで地球が太陽の周りを一周することは知らなかったのだけれど。間違っても天動説は無知蒙昧の野蛮人たちの知識ではなく、その当時の最高峰の知識人により系統化されたそれ

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新しい彼女たちの発見

新しい彼女たちの発見

 彼は言った。「やっと見つけた」
 彼女は言った。「見つけたって、ずっとここにいたけど」
 ふたりの言ったことはどちらも間違ってはいなかった。彼にとって、彼女はその瞬間に発見されたのであり、彼女にとっては彼女はそれまでもずっとそこにいたのであり、発見されるまでもなくそこにいたのだ。もしも少しだけ正確さを求めるのならば、彼が少し傲慢だったということになるだろう。害の無い程度の、誰もが持つ傲慢さ。しか

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ぼくの魔法使い

ぼくの魔法使い

 ぼくがまだ幼い頃ことだ。その頃にはまだ魔法使いがいた。彼にかかれば、タバコを消してみせるなんてのは朝飯前だった。なにも無いところからコインを出現させたし、ぼくの引いたカードのが何かを言い当てたりしてみせた。
 魔法使いはぼくの叔父だった。魔法使いとぼくには血縁関係があったから、ぼくも将来的には魔法が使えるようになるのではないか、と当時のぼくは思っていた。自分の血筋が魔法使いの血筋なのではないかと

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長いお別れ

長いお別れ

 その年末、アルバイト先の本屋が閉店することになった。駅前という絶好の立地にもかかわらず、いつも閑散としているという残念な本屋だ。誰も本を買わないか、すぐ近くのカルチュアコンビニエンスクラブで買うのに違いない。あるいは、誰の目にもその本屋は見えていなかったのかもしれない。確かに小さな本屋で、目を凝らしていないと気づかないかもしれない。
 わたしがそこでアルバイトをはじめたのは大学一年の秋のことだっ

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Fly me to the moon

Fly me to the moon

「わたしを月まで連れて行って」と、彼女は言った。微笑みながら。満月の夜のことだ。寒くて、空気がピンと張り詰めていた。吐く息は驚くくらい白かった。真円の月は、漆黒の闇夜に穴を穿っているかのようだった。もうじきそれは中天に昇るだろう。
「月って」と、ぼくはその満月を指差しながら言った。「あの月?」
「あの月」と、彼女はうなずいた。「他にどんな月があるの?」
 ぼくはしばらく考えた。衛星という意味でなら

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丸い地球の上でぼくが考えたこと

丸い地球の上でぼくが考えたこと

 ぼくの父は地球が丸いということを認めなかった。学校から帰って、その日学んだことを何気なく話すと一笑にふされた。
「地球が丸いって?」と、父はニヤニヤしながら言う。そして、近くにあったバスケットボールを指差し「じゃあお前、そこにあるボールに乗ってみろ」
 断っておくが、父は科学的な一切を頭から否定するような人ではなかった。進化論は認めていたし、それを学校で教えることも支持していた。地球の年齢は四十

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残酷な世界で傷ついたふたりが出会う話

残酷な世界で傷ついたふたりが出会う話

 わたしの目の前で女の子が泣いている。わたしはどうしていいのかわからない。女の子がなぜ泣いているのかがわからないからだ。もちろん、なぜ泣いているのかが分かったところで、わたしにはなす術がないかもしれないけれど、それでも、それがわかれば、慰めの言葉のひとつでもかけてあげられただろう。それで事態が好転しなくても、少なくともわたしがそれ以上いたたまれない気持ちになるのは防げる。女の子は泣き止まない。わた

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すべての引かれ合う力

すべての引かれ合う力

 彼が選んでくれた変な色のアイシャドーを捨てた。つまんでいた指を離すと、スッと落ちて、ゴミ箱の底に当たって派手な音を立てた。いや、そんなに大きな音じゃない。わたしの中では大きく鳴ったってことで。たぶん、部屋が暗いせいだ。
「万有引力」と彼が言ったのを思い出す。「すべて、物と物は引き合っているんだ」
「わたしと、君も?」と尋ねようかと思ったけれどやめた。バカみたいだし、完全にバカみたいだからだ。だか

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ちょっと、ピンボケ

ちょっと、ピンボケ

 朝、目を覚ますと、世界がボヤけて見えた。目をこすった。そうしてもう一度あたりを見回してみる。効果なし。目をつぶる。開く。効果なし。間違いなく世界がボヤけている。眠っている内に何があったのか、目に違和感らしいものはない。痛くも痒くもないのだ。ただ、ボヤけてよく見えないだけだ。あるいは、世界の方になにか問題があるのではないと思い込もうとしたが、無理な話だった。世界がボヤけるのは世界がその輪郭を失い掛

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迷宮としての直線

迷宮としての直線

 道は迷宮に憧れていたので迷宮のふりをしていたのだけれど、その実際のところは一直線だった。一直線も、一直線、どこまでもまっすぐな道である。そもそも道は迷宮なんて見たことがなかったのだ。だから、道は自分がちゃんと迷宮のふりができているのか知らない。迷宮を見たことがないのだから。見たことのないものと、それの真似ができているのかどうかを比べることはできないだろう。
 なにしろ、道があるのは何も無い荒野の

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甲冑の王様

甲冑の王様

 ある日のこと。
「甲冑が欲しいな」王様はポツリと呟いた。なぜ甲冑が?そんな問いは必要無い。王様が欲しいと言えば、それは必要であり、一もなく二もなくそれを持ってくるのが側近たちの仕事だ。長く平和の続いた時代のことである。近隣諸国とは友好的な関係が築かれていて、戦らしい戦もなく、気候もずっと良かったので豊作続き、農民たちが反乱を起こしたり、宗教関係でいざこざが起きたりもしない。とにかく平和で、奇跡の

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影の街

影の街

 影の街に迷い込んだことがある。冬の夕暮れのことだ。とても冷たくて強い北風の吹いている日だった。木々は震え、誰も彼も襟巻きを引き上げ、外套の襟を立て、歩く人たちはみな足早だった。ぼくは外套も襟巻きも持っていなかったから、凍えながら、ポケットに深く手を突っ込み、背中を丸め、俯きながら歩いていたから、いつ、どうやってそこに入り込んだのかはわからない。気づくとぼくは、影の街にいた。
 そこはなにからなに

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ふたご座の彼女

ふたご座の彼女

 ぼくがいまよりももう少し若かった頃の話だ。
 その頃のぼくは、いまよりも世間知らずで、いまよりも無謀で、いまよりも人の痛みに鈍感だった。歳を重ねることで得るものもあれば、失うものもある。おそらく、差し引きはゼロなのに違いない。そして、その頃のぼくはいまのぼくと同じように愚かだった。だいたいにおいて、人の愚かさとは変わらないものだ。歳を重ねようとも。
 その頃、ぼくはふたりの女の子に恋をしていた。

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あなたに名前を付けてあげる

あなたに名前を付けてあげる

「あなた達は私が怖くないんですか?」男は言った。
 妻と結婚し、一緒に暮らし始めた最初の夜のことだ。部屋の明かりを消すと、男が現れた。ぼくらはただただ茫然としていた。それもそうだろう。その男は音もなく、すうっとそこに現れたのだ。怖いとかなんとかよりも、驚きと困惑が先に来た。妻も怖がる素振りなんて見せず、ただぼんやりと男を見つめている。
「全然、怖くないけど」妻は首を横に振った。「なんであなたはそん

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