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兼藤伊太郎

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「無駄」の首謀者、およびオルカパブリッシングの主犯格、兼藤伊太郎による文章。主にショートショート。
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2019年12月の記事一覧

あなたの知らないところで

あなたの知らないところで

 真夜中に電話のベルに叩き起された。受話器を取ると女の声だ。聞き覚えはない。そんな風にしらばっくれるほど薄情ではない。本当に知らない声だった。
「あたし、もうじき死ぬの」と女は言った。舌っ足らずな喋り方、若干呂律が回っていない。「薬を飲んだの。あんたのせいよ」
「もしもし?」
「もしもし?」
「どちらにおかけで?」
「あんたよ」
 女は間違えてかけたのではないの一点張りで埒が開かない。そう言われて

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父の手袋

父の手袋

 寒い日が続いた。どんよりと雲が立ち込める朝だった。ぼくと父はほとんど同じ時刻に家を出て、父は会社へ、ぼくは小学校へと行っていた。その朝も、ぼくと父は朝の身仕度を済ませて、ちょうど同じタイミングで玄関に出た。マフラーを首にグルグル巻きにしているぼくを見て、父は自分の手袋を差し出した。革製のかなり年季の入った手袋だ。ぼくは手袋をしていなかった。
「持って行け」と父は言った。父は寡黙な人だった。それだ

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規則

規則

 毎朝、掲示板にはその日一日の規則が書かれる。チョークで、神経質な筆跡で。規則を守らないと酷い目にあうらしいので、皆それを確認する。知らなかったは許されない。自己責任だ。規則は知っておかなければならない。それは暗黙の規則らしい。
 朝の食堂は、その日の規則についての話題で持ちきりになる。
「今日の規則見たか?」
「もちろん。今日のはちょっと大変だな」
「ああ、気を引き締めていかないと」

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ある嫌われ者の死

ある嫌われ者の死

 嫌われ者が嫌われるのは理由のないことではない。偏屈、常に悪態をつき、周りを罵倒する。ひとかけらの優しささえ見せることはない。泣く子はさらに泣くし、虐げられたものをさらに苛む。周囲は彼を遠ざけ、そうなると嫌われ者は嫌われ者でさらに周囲を馬鹿にして悪罵の限りを尽くす。そんな悪循環。
「うるせえんだよ、バーカ」
 が、そんな循環も永遠には続かない。嫌われ者だって人の子、それまで一片の人間らしさを見

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簡単な世界

簡単な世界

 ある青年が井戸を覗き込んでいた時の話だ。
 あまりに身を乗り出していたものだから彼は井戸の中にまっ逆さま、落ちてしまった。ドボン、水しぶきを派手に上げ、さらに悪いのは、青年はカナヅチで、少しジタバタ水面を叩いただけであっさり沈んでしまった。助けを呼ぶ悲鳴を上げる暇さえなく。だから、誰も青年が井戸に落ちたことになど気付かなかった。
 暗く冷たい水の中を沈みながら、こんなにあっさり人生は終わってし

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奇跡

奇跡

 新聞のその写真を見た時、これで生きていたら奇跡だと思った。写っていたのは金属の塊であり、それがかつて自動車であったとはとてもではないが思えなかった。しかし、それはかつて確かに自動車であったのだ。ぼくはその自動車のアクセルを確かに踏んでいたし、その自動車のハンドルを確かに握っていた。
「奇跡だ」
 意識を取り戻したぼくに友人は言った。誰もがそう言った。まるで彼女が死んだのは当然のことであるかの

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写真

写真

 父が死んだ。母はすでに他界していたから、肉親と呼べる人間はいなくなった。これで天涯孤独の身だ。それはそれで気が楽かもしれない、と思った。
 一人で住むには家は広すぎた。売りに出して、どこか手頃な部屋を見付けて越すことにした。古い家だから、買い手がつくだろうか、と一抹の不安はあったが、案外すぐについた。たいした額ではなかったが、それでも思っていた額よりはかなり大きい。
 買い手とは一度だけ顔を

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探さないでください。

探さないでください。

 仕事を終え、帰宅すると、食卓の上に紙が一枚置いてあった。手に取って見ると、何か書いてある。
「探さないでください」
 それを元に戻し、一度灯りを消し、もう一度つけてみる。依然としてそれはそこにある。どうやら幻覚ではないようだ。
「弱ったな」と口から漏れた。実際弱ったのだから、自然なことだ。この部屋に住んでいるのは自分一人で、出ていくような同居人はあいにくと言うか、いない。
 念のため、無くなっ

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くつずれ

くつずれ

 試しに履いてみた時から、少し窮屈なのは分かっていたけれど、最後の一足だというし、デザインも気に入っていたから、彼女は迷いながらもそれを買うことにした。それからすぐには履かないでおいたのは、とっておきの機会にそれを下ろそうと思っていたわけだ。せっかくのお気に入りだもの。
 少し歩いただけで靴擦れができて彼女は泣きたくなった。けれど、自分のそんな状況を、彼女は彼には気づかれないようにしようと心に決

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憐れまれるべき者たち

憐れまれるべき者たち

 女が出て行った部屋は、女がやって来た時と変わらなかった。女は何一つ持ち物と呼べるものを持っていなかった。女は着のみ着のまま現れて、着のみ着のまま去って行った。足されたものがゼロであり、引かれたものもまたゼロならば、過不足が起きるはずもない。過不足無し。部屋はその前とその後になんら変化をこうむらなかった。
 確かに、おれが女に買い与えてやったものはあり、女はそれを持って行かなかったから、それは部

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家出

家出

 彼もついに腹に据えかねたのだった。彼の父は理不尽であった。理由も無く彼のことを殴った。彼の父も、その父に理不尽に扱われていたので、父とは息子を理不尽に扱うものだと彼の父は思っていた。息子とはつまり、父に理不尽に扱われるものだと思っていた。息子はボールであり、父はバットであった。息子はサッカーボールである、でもよい。
「ぼくは出ていくよ」と彼が伝えたのは、もちろん彼の父にではない。そんなことを言え

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おやすみ、ゾンビの兄弟

おやすみ、ゾンビの兄弟

 あるところに、ゾンビの兄弟がいました。
 なんでゾンビ?
 それはゾンビのお父さんとゾンビのお母さんから産まれたからです。ゾンビのお父さんとゾンビのお母さんのお父さんとお母さんもゾンビでした。そのまたお父さんとお母さんも。それは由緒正しいゾンビの家系だったのです。
 ゾンビの兄弟はとても仲良しでした。なぜなら、ゾンビの兄弟は学校で友達ができなかったから。お互いがお互いの友達になる他なかったのです

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その一瞬

その一瞬

 彼の右頬を彼女が平手打ちした、その一瞬。
 彼がなぜ平手打ちを受けなければならなかったのか、彼女がなぜ平手打ちをすることになったのかは語られない。それには理由があるだろう。もしかしたら、込み入った話かもしれない。物事の原因はたいてい複雑に絡みあっていて、単一のそれに還元できない。むしろそういったことの方が多いくらいだ。まあ、何はともあれ、それはここでは語られない。
 そして、彼が平手打ちを受

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放課後、教室、ニヒリズム

放課後、教室、ニヒリズム

 西日が差し込んで、教室を赤く染めている。彼は机にダラリと覆いかぶさっている。彼女はそれを見下ろしている。二人以外、教室には誰もいない。どこか遠くで女子が笑い、囁き合うのが聞こえる。部活の掛け声、管楽器の残響、消し忘れられた黒板の白い文字、粗い粒子が空気中を満たしている。
「退屈だ」彼は言った。「退屈すぎる」
「部活でもすれば?」彼女は言った。「何か目標を持てば?」
「目標がなんだ」彼は言っ

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