003 性別の「別」に見える窮屈さ
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003 性別の「別」に見える窮屈さ

高校生(名前検討中)

今回扱うテーマは表題の通り。

ある日、「別」とは何だ、と思った。"sex"あるいは"gender"に該当する、従来からの狭義としての「男か女」を選ぶにあたって、「性別」ではなく「性」で事足りるだろうに、わざわざ「別」があるのはどういった理由があるのか。

「性別」という単語の語源は調べてみたものの不明。つまり「別」を付け足した犯人は、私の調べる限りでは不明という結果になった。しかし、犯人探しよりも、性別が個人の無限性に蓋をしかねないという問題こそが解決すべき喫緊の課題なのだ。

私は「別」によって、性別は「男か女」だという二元論的な認識をもたらしたのではないかと推測する。あるいは、そこまで及ばなくとも、現代において性自認がノンバイナリーとされる人々に対する理解が遅れる一因になったのではないか。

こんにちでは、性的少数者に対する認識の理解はある程度広がっていると考えられる(深まっているかは置いておいて)。しかし、LGBTQ+となると、どうだろうか。電通の調査によると、2020年時点で「LGBTとはセクシュアル・マイノリティの総称のひとつということを知っていますか。」というアンケートで、八割以上が「知っている」「なんとなく知っている」と答えた。一方で、「クエスチョニング」「アセクシュアル/アロマンティック」「エックスジェンダー」「パンセクシャル」(Q+にあたるジェンダー)に対して「知っている」「なんとなく知っている」と答えた割合は、いずれも二割強にとどまった。

いずれも、自らのセクシュアリティを公言する有名人が少ないことも一因に挙げられるだろう。しかし私が気になるのは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーのいずれもが、性自認・性的志向が明確に男か女に分かれている、ということ(バイは男女両方を恋愛対象にするが、男女以外の性については不明なので、この例に含めた)。そして、認知度の低かった「クエスチョニング」などについては、明確ではないか、そもそも男女の次元にはない。

この事実から、人々のジェンダーに対する考えには、「男・女」の二元論的な認識が見られると言える。

ここから先は論拠が全くないため、完全な個人的思考です。お許しを。

男女二元論をもたらした要因に「性別」という単語があるのではないか。これがなければ、Q+の認知度はある程度違っていたのではないか。私はこのように考える。

人が持つ無限性。自分の見えないところで相手はこんな振る舞いをするのだ、という不意打ちの気づきはいつでも起こりうる。例えば、障害者に対して、その障害に合わせた配慮やケアは必要。しかし、その人を障害を持たない人との違いで捉えて、「(一般化された)障害者」だと認識すると、その人が本来持っている特徴が見えなくなってしまうのではないか。

ジェンダーに対する認識によって、その無限性に近づくことすらできず、レッテルを貼って遠ざかってしまっては、面白くないと思う。「どんな人か」に、その人の性的思考も性自認も関係ない部分があって、真にみんなが気にしているのはそこにあるのではないか。性別は飾りやから。

LGBTもQ+も、その点には全く変わりないはず。無限性があって、尊重される個性があって、面白いところがある。どちらも社会の認知は完全とは言えないが、どちらかと言うとQ+はまだまだ、である。もしかするとそこには「別」という漢字をくっつけた影響があるのかもしれない。

「まだまだ」の側に属するいち高校生として、こういう感じに思っています。

(伊藤亜紗『手の倫理』より、「無限性」という言葉を一部で拝借しました。全文読んだわけではないので、間違った使い方をしてるかもしれない。ごめん。)

以上。

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