生活の愉しみ、その原体験

寂れた県立の芸術会館に巡回してきたバウハウスデザイン展を母と観に行って、私はそのとき初めて「デザイン」なるものを意識したように思う。たぶん、小学五年生のときだった。デザインという言葉の意味を理解していたかどうかも危うい年齢。

展示台に佇むワシリーチェアと、その後ろに貼られた(展示された)アルファベットのポスター。それまでの自分の生活では到底見たこともない、金属をただ曲げて布を張ったような洒落た椅子に、愛嬌のあるレタリングのabc。こんな風に「デザイン」ってのをすれば、暮らしを好きなようにかっこよくできる、そうやって何かを作っていた人たちがいるんだ。漠然と、そんなことを考えたのを思い出す。小さな世界を生きる田舎の子どもに、生活を創る愉しみ、を予感させた。

この間聴きに行ったトークイベント(100年後の民藝 @蔦屋書店 岡崎) で特に印象に残ったのは、「民藝への眼差しは、やがて建築(建物)へ辿り着く」 という考察。1928年東京博覧会において柳宗悦が民藝館(=三國荘)という「住空間」でその思想を表現したことや、河井寛次郎に一度弟子入りを断られた作家が、住宅の設計図を書いて再び嘆願にいったというエピソード。
民藝がひとつの思想であることを考えると、「モノを蒐める」から「蒐めたモノを包むハコを設計する」に至る思考はいたって自然なことなのだろうが、「蒐集品としての民藝像」が強かった私にとっては、モノ→建築や住環境への拡がりが新鮮に感じられた。

もしもバウハウスの展示で、椅子のみが美術品よろしくケースのなかで展示されていたら、私はそこから生活の営みを連想できただろうか。きっと、展示用の簡易的なものであったとはいえ、椅子の背後にデザインされた文字を飾る、その何気ない美に、幼い私は引っかかりを覚えたのだろうなと思う。モノとモノから暮らしの気配がつくられる。

まだまだ勉強中ながら民藝運動やバウハウスなど他の芸術運動を追っていく中で、11歳の自分の直感と新らしい知識とが繋がったり遠ざかったりしながら、徐々に輪郭がついていくのが、面白い。

ここ数年、娯楽も消費も自己表現も全てが一つでできるスマートフォンに時間を費やしがちであるが、生活の何気ない美しさを創っていく、残していくことの愉しみを、自分自身忘れたくない。

#民藝 #民藝運動 #デザイン #エッセイ

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