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「 私とは何か 「個人」から「分人」へ 」

平野啓一郎 「 私とは何か 「個人」から「分人」へ 」(講談社現代新書)

”本当の自分”。

悩ましい言葉。特に若い頃はこの正体不明の言葉に振り回されることもしばしばでは。

例えば。

「職場(学校と)プライベート(地元)でのアナタは、人が違うようだね。どっちが本当のアナタなんだろう?」

言う方はもちろん、何の意図もないのかもしれないが案外引っかかる言葉です。

どっちが”本当の自分”なのか?

自分はこんな状況を”個人の幅”ととらえていました。自分の中のAな面、Bな面・・・両方含めて自分、という具合。

平野はここで、「分人」という言葉を使う。
AもBもあなたの”分人”でありどちらが本当のアナタ・・・というワケではなく、どちらも本当のアナタの”分人”というワケ。

ここで、迷っちゃうんですね。本当の自分じゃなければ、偽っている自分なのかと。

平野はそうじゃない、両方本当のアナタの一部なんだよ・・・と説きます。

アレもコレも本当のアナタなんだよ、と。

先の職場とプライベートの例でいくと「ん、どっちだろう?え、自分いつの間にかウソついちゃってる・演じちゃってるのかな?」となっちゃうワケですよ。そこで無用な悩みに囚われてしまう。そんな時期、確かにありますよね。

自分の場合それを”幅”ととらえることで自分の成長を認めようとしていた。「見ろ、これだってあれだってオレだ。幅がある・・・広い人間だろう?」と。

平野はそれを、分けた。

どうやら自分の方が肩ひじ張った、鼻息荒い人間のように思えますね。

こんなセンテンスで考えてみましょう。

「自分は、あの人が嫌いで仲が悪い。」

自分の場合これは、そのままですね。自分の幅の中で収まりきらない。じゃあそれで仕方ないのかな?という感じ。もちろんそれがいい、悪いではないことは理解している。それなりの関係を続けていけばいいと思っているし、それが可能だと思っている。

平野流でいくと「あの人の”分人”と、自分の”分人”の仲が悪い。」といった感じになるのでしょうか。
どことなくこちらの方が少し問題を離れた場所に置き、穏やかに扱っている感じになります。部分と部分の問題なのだから、大したことじゃない。そこにこだわらなくてもいいんだよ、と。

自分がこの平野流の考えを用いるとどうでしょう?それなりにトシとってヒネくれた自分ですので「ああ、アレは自分の”分人”とあの人の”分人”の問題だから。」なんて都合よく考えることもありそうです。あ、それはあくまでオレの”分人”の件だから大した問題じゃないや、なんて。部分の問題のせいにして逃げていく感覚。

こんなことを思いつくくらいだから自分が今から”分人”完全肯定にまわることは、難しいでしょう。

でも、ここは好き。

「好きな”分人”を足掛かりに、生きていけばいい。」

自分の中に好きな部分が一つでもあれば、自分を否定する必要はない。

これは誰が指摘するまでもなく、また誰がなんと言おうと、正解なんだと思えます。

とすれば。

この本の・・・”分人”・・・の言わんとすることで、救われる人は案外多いような気がするのです。

この辺りを軸に、ほかにも多くの”分人ケーススタディ”が収められています。

真面目に考えすぎてしまう人ほどツラく感じる世の中のように感じます。

そんな中でこの本が”薬”となる、より多くの人に届けばいいな。

なんてね。


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coldmountainstudy  店主:鳥越将路

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