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ほんやのほん。ほんやの思い。

”本屋”を名乗りだして少し経つわけですが。

それでもまだまだ”本屋についての本”を読むことは多いです。

勉強・気付きにつながる・・・といのももちろんあります。

しかしそれ以上に本を活かしたい、というその人その人の思いがやはり心地よい。

やはり”同族”の思いは何時だっていいものです。

しかし勉強・・・といってもやはりどこか”反面教師”的なものもなくはない。

ある本屋さんの記事を購読しているのですが、ボクにとってはそれが”反面教師”にあたるのかな。

「高価で価値のある本を買わないことは嘆かわしい事だ。安い本を手に入れていい気になっている連中が多いのはタイヘン悪い事だ!」

・・・という論調の本屋さん。従来型の古書店という選択肢からボクを遠ざけたのがこの手の論調でした。
(もちろん従来型の古本屋さんすべてがそういう人、そういう意見だとは全然思っていません。ボクのような新参者にも快く接し、ご教授いただける方が大半です。)

記事を購読している本屋さん、確か元は”一箱古本市”の出だったはず。とすれば最初の思いは今とはだいぶん違ったのではないかな・・・なんて勝手に思っちゃったりして。

ついでに言ってしまうと・・・敷居高く構えるのは構わないんですよ。
構わないからせめて本や店内くらいキレイにしておこうよ・・・なんて思っちゃうわけですね。どれだけ価値のあるものでも穢い状態のものを堂々と「買え!」と言っている業種は、本屋くらいのものじゃないかな・・・。

少し話が逸れてきました。

じゃあ何でそんな記事読み続けているのよ?と問われたらやはり・・・

自分は、そうはならないでいよう。

そう思うから。それだけでしょうね。

また話はやや横道に行きますが長野にきて15年。

地域・子供の学校行事その他あれこれ・・・いろいろ「かかわり」も増えてくるわけですが。

「なんで、”問題がある”ことはみんなわかっているのに話は変わらず続いていくのか?」

・・・なんてことを常々考えさせられる。

さらに恐ろしいのは「いつの間にか自分も、その流れに同化している」ことなんです。

確かに変化にはもの凄いエネルギーが必要。でもそのエネルギーの要・不要とは別の問題でどちらかというと”正しい、という思いで”流れに同化していくことがある。

しかしやはり流れとしてはマズいわけですから(暮らしで言うならやはり厳然として地域行事参加者は減っているわけです。)”正しい、という思い”でもやはり”正しくない”わけです。

ジレンマ発生、ですね。

そうはならない、だけでは正しく歩めない。これはもうわかってきましたね。(もちろんそれを忘れない、ということは大前提として。)

ただやはり。

じゃあどうする?という明確な答えは。

もちろん見出せてはいない、わけですけれども。


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