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"NO ENTERTAINMENT, NO LIFE"

私は、星野源の紡ぐ言葉が好きだ。好きだということば以外に表現が追いつかなくて非常に心苦しいのだが、とにかく好きなのだ。同じ本を繰り返し読むことはそんなにないのだが、彼のエッセイだけは繰り返し繰り返し読んでいる。昨日も、寝る前に彼のエッセイ『よみがえる変態』を読んでいた。

彼のすべてを知ることは到底できないけれど、気持ちや経験を他人から慮られることは望んでいないかもしれないけど、それでも私なりに彼のこれまで経験してきたことを想像してみると、けしてすべてを喜んだり笑い飛ばしたりできることばかりではないと思うのだ。学校で友達と馴染めなかったり、大病を経験したり。でもそれでも彼は自らの経験を、エッセイ執筆や楽曲制作などに活かしてさまざまな形で昇華している。彼の紡ぎ出す文章や楽曲に、私は心底惚れ込んでいる。

彼は『よみがえる変態』(初出:2011年)の中で、このように綴っている。

厳しい現実を胸に刻みつつ、想像力を駆使しながら何かの表現を生み、鑑賞し、くだらない冗談とか、エロいこととか、面白いフィクションやバラエティ番組とか、素敵な音楽とか、そういう楽しいものを糧に毎日毎秒を乗り越えることにも、連日流れる痛ましいニュースで受けるネガティブな感情のパワーと同じくらい、いや、それ以上に前向きなパワーがあると、私は信じている。 

この文は、東日本大震災が発生して間もない頃に彼が私たちに届けてくれたことばだ。この箇所を以前読んだ時は、「すごいいいこと書くなぁ」くらいにしか思わなかったが、今改めて読んで考えてみると、彼の最近の言動と一致するものがあり、「すごい人だぁ…」とえらく感動した。この時の状況って、新型コロナウイルスが世界を震撼させている現在の状況とあまりにも似てやしないか。そして、この時かもしくはもっと昔から、彼はエンターテイメントの力を信じ、彼なりの信念と想いを胸に抱え、私たちにことばを、音楽を届けてくれているのではないかと気がついた。

新型コロナウイルス流行の最中、彼がギターの音と歌声を響かせてアップした『うちで踊ろう』。この『うちで踊ろう』にひもづくムーブメントは、多くの人を巻き込み、彼の存在感の大きさを示した。多くの人が、彼とコラボをして彼の紡ぐ音楽をともに楽しんだ。その後も、彼は『ニセ明ヒストリー』や『おげんさんといっしょ』など、ありとあらゆる作品を世に送り出してくれている。

また、彼はこのように綴っている。

世間を面白くするには、世間を面白くしようとするのではなく、ただ、自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。

ものすごいムーブメントを生み出した『うちで踊ろう』も、多分彼はただただ純粋に自分が楽しめる、面白いと思うことを世に投げただけだと思うのだ。結果的に彼に導かれる形で身体を動かし、歌を歌い、楽器を奏でてきた人たちがたくさんいた。私は彼とコラボすることはなかったけれども(ピアノでも弾いたらよかった)、星野源から始まったこのムーブメントに本当に本当に楽しませてもらった。#うちで踊ろう、というハッシュタグをたどっているだけで、見ているだけで、楽しかった。

緊急時に人柄が出るとはいうものだが、私は彼以上にできた人を知らない。このような時だからこそ、エンターテイメントの力を信じて、周りに迷惑をかけることなく、自分が思う、楽しいことをする。簡単なようで非常に難しいことを、やってのけていると思うのだ。

さらに、彼はこのようにも綴っている。

生きた証や実感というものは、その人の外的行動の多さに比例するのではなく、胸の中にある心の振り子の振り幅の大きさに比例するのだ。

彼がくも膜下出血を患い、病床に伏せていた頃に得た気づきは、私たちが今直面している境遇とどこか通じるものがある。外に出られず、身体的自由の取りにくい状況だとしても、心を満たす術はある。自分の工夫次第で、心を満たすことができる。そう、教えてもらった。

私はこの外出自粛生活を送る中で、今まで以上にいろんな本や音楽、映画に触れ、そのたびに心が揺さぶられ、結果として心を保つことができていた。そして何より元気をもらってきた。明日を生きようという気力が湧いた。生きる上でエンターテイメントはなくてはいけないものだと思う。"NO MUSIC, NO LIFE"であると思うし、 "NO MOVIE, NO LIFE"であると思うし、"NO ENTERTAINMENT, NO LIFE"だと思う。絶やしてはならないものだと思う。私は微力ながらでも、エンターテイメントを届けてくれるアーティストやクリエイターすべての方たちを応援したい。そう思った。



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